淮西への敗北を指揮権の不統一によるとみた朝廷は、夏綏節度使韓全義を最高指揮官とした。
しかし全義は宦官とつながり、政治的な立ち回りばかりうまい無能な将軍であり、諸軍を統制できず、廣利・五樓と敗戦を重ねた。
敗戦の主な原因は宦官の口出しによる混乱と、戦闘意欲のない無統制な藩鎭の兵力にたよっていたためであった。
五月には淄青への押さえである徐泗濠節度使張建封が亡くなり、その子愔が自立したことによって、徐州をも失うこととなった。
ただ西川方面では韋皐が吐蕃を次々と破り失地を回復していっていた。
しかし全義は宦官とつながり、政治的な立ち回りばかりうまい無能な将軍であり、諸軍を統制できず、廣利・五樓と敗戦を重ねた。
敗戦の主な原因は宦官の口出しによる混乱と、戦闘意欲のない無統制な藩鎭の兵力にたよっていたためであった。
五月には淄青への押さえである徐泗濠節度使張建封が亡くなり、その子愔が自立したことによって、徐州をも失うこととなった。
ただ西川方面では韋皐が吐蕃を次々と破り失地を回復していっていた。