らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

平城遷都1300年祭ー平城宮跡(その1)

2010-10-09 | 旅行
先日、奈良県で行われている「平城遷都1300年祭」に行ってきました。
そこで、今日から3回にわたって大極殿などが復元されている平城宮跡をご紹介します。

私が「平城遷都1300年祭」に行った目的の中には、ゴーグルを掛けると、コンピュータよる奈良時代の風景、人物などの動画が見られるという催しを体験することもありました。
しかし、残念ながら、午前1回、午後1回の催しは既に整理券の配布が終了していて、目的を達することができませんでした。主催者には、もう少し回数を増やすなどの配慮をして欲しいものです。

・築地の外からの眺めた第一次大極殿です。

「第一次大極殿(だいいちじだいごくでん)」と前庭です
第一次大極殿は朱雀門の真北約800mに堂々とそびえています。
正面は約44m、側面は約20m、地面よりの高さは約27m、直径70㎝の朱色の柱を44本使用し、屋根瓦は9万7000枚を使った平城宮最大の宮殿であり、その建物は奈良時代の中ごろに一時都とした恭仁(くに)宮に移築され、山城の国の国分寺金堂になりました。
当時天皇の即位式や外国使節の謁見など、国の最も重要な儀式のために使われていたそうです。

大極殿復原に際しては、当時の設計図や参考になるような絵画などが残っていないことから、発掘調査で判明している基壇や恭仁(くに)宮の大極殿(国分寺金堂)の跡に残る礎石の状態などを参考に、大極殿の大きさ、形を推定したようです。
更に、わずかに残る文献や法隆寺金堂、薬師寺東塔など、同時代の寺院建築も参考にているそうです。

(参考)
大極殿(だいごくでん)とは、古代の朝廷の正殿です。殿内には高御座(たかみくら)が据えられ即位の大礼や国家的儀式が行われました。
「大極殿」の名は、万物の根源、天空の中心を意味する「太い極」に由来するそうです。すなわち、帝王が世界を支配する中心こそ「大極殿」の意味と言われています。
日本最初の大極殿が置かれた宮殿については、飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)説と藤原宮説に分かれているそうです。

・第一次大極殿の正面です。


大極殿と朝堂院(ちょうどういん)は平城宮の中でも最も重要な場所だったそうです。
国の政策を決め、元日や節句には儀式を行い、外国の使節をもてなす宴会が行われたりしました。このとき、天皇が座る建物が大極殿で、臣下は南の朝堂院に並んだそうです。

平城宮には二つの大極殿と朝堂院がありました。西側のものは第一次大極殿、朝堂院と呼ばれており、奈良時代前半のものです。
奈良時代後半には第二次大極殿、朝堂院が建設され、第一次朝堂院は宴会の場所となったようです。

・側面からの第一次大極殿です。


「大棟中央飾り」
「大棟中央飾り」は同時代の中国に見られ、日本でも西大寺薬師金堂には載せられていました。大棟中央部の蓋が象徴的なものに変化したと考えられているそうです。
形は法隆寺東院夢殿の宝珠を参考にしています。

・大極殿の屋根の「大棟中央飾り」です。


・第一次大極殿の屋根の左右に設置されている鴟尾(しび)です。


「朱雀門(すざくもん)」
「朱雀門(すざくもん)」は平城宮の正門です。この門の前では外国使節の送迎や、大勢の人達が集まって歌垣などを行ったり、正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすることもあったそです。
朱雀門の左右には高さ5.5mの築地がめぐり、130haの広さの宮城を取り囲んでいました。

(参考)
・朱雀門は南面する正門で、宮城の12の門のうち最も重要な門です。
・歌垣とは、男女が集まって互いに歌を詠みかわし舞踏をして遊んだ行事です。
・1haは1万平方メートル(約1.0083町)です。

・第一次大極殿から眺めた朱雀門です。


「遣唐使船復元展示」
全長約30mの遣唐使船を復元展示していました。
この船は、当時の国際交流の象徴的存在であり、マストの高さは約15mあります。

(参考)
・遣唐使船は倭国が唐に派遣した朝貢使(ちょうこうし)が乗った船です。遣唐使は630年の第1回から894年の第20回まで派遣されました。