一昨日ご紹介しました「唐招提寺」から徒歩で10分ほどのところに薬師寺があります。この薬師寺も唐招提寺や東大寺等とともに”古都奈良の文化財”として1998年に世界遺産に登録されているお寺の一つです。
「平城遷都1300年祭」に行った帰りに立ち寄ってきましたので、今日と明日はこの薬師寺をご紹介します。
・世界遺産に登録されていることを示す石碑です。
薬師寺は「法相宗(ほっそうしゅう)」の大本山です。
縁起によれば、薬師寺は天武(てんむ)天皇により発願(ほつがん:680年)、持統(じとう)天皇によって本尊開眼(かいげん:697年)、更に文武(もんむ)天皇の御代(みよ)に至り、飛鳥の地において堂宇(どうう)の完成を見ました。その後、平城遷都(710年)に伴い、718年に現在地に移されたそうです。
(参考)
堂宇とは、堂の軒のことで、お堂や殿堂のことを指します。「宇」は軒の意味です。
・「興樂門」です。 唐招提寺から歩いてくると、この門から薬師寺に入ることになります。
「金堂」
薬師寺縁起によれば、金堂は二重二閣、五間四面、瓦葺の建物で各層に裳階(もこし)をつけた美しい堂で、龍宮造りと呼ばれています。
金堂は享禄元年(1528)この地域の豪族の戦火に巻きこまれ、西塔などと共に焼け落ちました。その後、豊臣家が金堂の仮堂を建て、本格的な金堂の再建に取りかかる筈でしたが、豊臣家滅亡などの事情で400年近く仮堂のままの状態が続いていました。
昭和42年(1967)に高田好胤師が晋山し、百万巻写経勧進による金堂再建を提唱して全国に写経勧進に歩き、その結果、昭和46年(1971)金堂の起工式を行い、そして昭和51年(1976)4月に
白鳳時代様式の本格的な金堂として復興しました。
金堂の再建は歴代の薬師寺住職にとって悲願中の悲願だったようです。
(参考)
白鳳時代とは、日本文化史、特に美術史の時代区分の一つです。飛鳥時代と天平時代の中間で、7世紀後半から8世紀初頭までの年代を言います。
・龍宮造りと呼ばれている、復元された美しい金堂です。
「大講堂」
大講堂は正面41m、奥行き20m、高さ17mあり、伽藍最大の建造物です。
講堂が金堂より大きいのは古代伽藍の通則で、これは南都仏教が教学を重んじ講堂に大勢の学僧が参集して経典を講讃したためだそうです。
大講堂のご本尊には弥勒三尊像(白鳳時代:重要文化財)、後堂には仏足石・仏足跡歌碑(国宝・天平時代)が安置されています。仏足石の両脇には釈迦十大弟子も祀られています。
・金堂の北側に建っている大講堂です。
「銅鐘」
・重要文化財に指定されている銅鐘(梵鐘)です。
「中門」
南門を入ると中門があります。
中門は昭和59年(1984)に西塔に引き続き復興され、そして、平成3年(1991)には二天王像も復元されました。
中門の右側には多聞天像が、左側には持国天像が仁王立ちとなって周囲を威圧しています。
・中門です。
「二天王立像(多聞天・持国天)」
享禄元年(1582)の兵火により中門とともに焼失した二天王像は平成3年(1991)に復元復興されました。
この仁王像は発掘調査によって裸形ではなく、武装した二天王像と言うことが判明し、中国西安大雁塔の門垣にある線彫の仁王像や法隆寺の橘夫人厨子の扉絵などを参考にしたそうです。
金剛力士像は仁王とも呼ばれ、一般に仏法を守護する一対の力士のことを指しますが、本来正しくは執金剛(しつこんごう)、或いは密迹(みっしゃ)金剛と呼ばれる単身の守護神のことだそうです。これが次第に門や本尊の左右にあらわされるに及んで、阿吽一対となり、次第に二王あるいは仁王と呼ばれるようになったそうです。
・多聞天像(毘沙門天の別称)です。
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・持国天王像です。