昨日からご紹介しています「京都御所」参観記シリーズ、2回目の今日は「諸大夫の間」から順路に沿ってご紹介します。
「諸大夫の間(しょだいぶのま)」
諸大夫の間は、「御車寄」の南側に位置して建てられており、正式の御用で牛車または徒歩で参内したものの控えの間です。
御車寄せから昇殿出来ない武家、大名などはこの御殿の西の平唐門を入り、沓脱(くつぬぎ:長い石)で沓を脱いで昇殿しました。
・「諸大夫の間」の御殿です。
諸大夫の間には三つの部屋があって、身分の上下によって異なった部屋に控えます。
それぞれ襖絵によって部屋の呼称とされ、格の高い順に東から「虎の間」「鶴の間」「「桜の間」と呼ばれています。
「虎の間」
虎の間は、儀式の時の公卿の控えの間です。この事から「公卿の間」とも言われています。
・虎の間の襖絵です。筆者は岸岱(がんたい)です。
「鶴の間」
「鶴の間」は「殿上の間」とも言われ、諸侯、所司代、高家、僧侶の控えの間です。
・「鶴の間」の襖絵です。筆者は狩野永岳(かのうえいがく)です。
「桜の間」
西側の部屋は「桜の間」で、前記以外の控えの間となっています。
・「桜の間」の襖絵です。筆者は原在照(はらざいしょう)です。
「新御車寄(しんみくるまよせ)」
新御車寄」は、大正4年(1915年)の大正天皇の即位の礼に際し建てられたもので、大正以後の天皇、皇后両陛下の玄関です。
「建礼門」
「建礼門」は、京都御所の紫宸殿の南正門です。南門とも言われ、檜皮葺(ひわだぶき)、切妻屋根の角柱を用いた四脚門です。
元来天皇のみの通用門でしたが、近来、外国国王、大統領などの国賓来訪の折にも開扉されていますが、他にも、即位式、御元服、立后、立太子や節会など重大な儀式の際にも開かれるそうです。
・御所内から撮影した建礼門です。
「建春門」
「建春門」は、東側築地(ついじ)に造られており、建築様式は四脚門、切妻屋根、平入りの前後に向唐破風(むかいからはふ)をつけた唐門の一種で、華やかな御門です。
江戸期までは勅使の出入りに使われていましたが、明治以後は皇太子や皇后の出入りに使われるようになりました。また、外国の元首が出入りする際にも使われています。
一昨日、ご近所の Kさんご夫妻と一緒に京都御所の春季一般公開を参観してきました。
京都御所は春と秋の年2回、一般公開が行われますが、今年の春季一般公開は4月6日から10日まで行われています。
そこで、今日から数回に分けてその模様をご紹介します。
「京都御苑」
京都御苑の入り口を入ると「京都御苑のごあんない」がありましたのでご紹介します。
京都御苑は東西約700m、南北約1300mのほぼ長方形をしています。このうち御所などを除いた約63haが「国民公園」として終日解放されています。
苑内には約5万本の樹木が生育し、外周九門や、嘗ての公家屋敷の遺構も多く残っています。
豊かな自然と歴史に恵まれた京都御苑は御所の前庭として、また、散策、休養、スポーツ、そして自然や歴史とのふれあいの場として多くの人々に親しまれています。
・京都御苑への入り口です。
苑内では桃や桜など数多くの花が咲いおり、訪れた人たちの目を引いていました。
「京都御所」
京都御所はもと大内裏と言われ、1217年前の延暦13年(794年)桓武天皇が遷都された平安京の大内裏の中ほどに天皇のお住まいである内裏(皇居)がありました。
内裏が火災に遭うと、天皇は貴族の私邸など京中の殿邸を仮皇居とされました。これは里内裏(さとだいり)と呼ばれていますが、平安時代の後期以降、元の内裏は次第に使用されなくなり、里内裏が日常の皇居とされるようになりました。
現在の京都御所は土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)と云われた里内裏が発展したものです。
光厳(こうごん)天皇が元弘元年(1331年)ここに即位されて以降、明治2年(1869年)に明治天皇が東京に行幸(ぎょうこう)されるまで皇居とされました。
現在の建物は安政2年(1855年)に再建されたものです。
「築地塀(ついじべい)」
京都御所の「築地塀(ついじべい)」は、五筋の白線をつけた薄い泥色の壁で、格調ある静閑な雰囲気を以って、約11万3000㎡の中に京都御所十余の木造宮殿群を囲んでいます。
これは塀として最高の格式を示すものだそうです。
・左奥のテントのところが京都御所一般公開の入口「宜秋門」です。
「宜秋門(ぎしゅうもん)」
宜秋門(ぎしゅうもん)は別名「唐門」とも「公卿門」とも言われており、檜皮葺(ひわだぶき)、切妻造りで、柱間1間の四脚門です。
この門は、昔摂政関白、親王、公家、殿上人や将軍の御使及び諸大名が参内する際の表参内門です。
・京都御所一般公開ではここが入口となります。当日は平日ではありましたが、天候に恵まれたこともあって大勢の参観者で混雑しました。
「御車寄(おくるまよせ)」
宜秋門(ぎしゅうもん)を入るとすぐに「御車寄」があります。
天皇より「牛車の宣旨、手車宣旨」を賜った者は宜秋門から車のまま通行が出来て、この御車寄より昇降出来ました。
御車寄は、昔摂家、親王、堂上、六位の蔵人など昇殿を許された人々が正式参内の時に限り昇降するところです。
一昨日、我が家の桃の花が漸く満開になりました。
今年は冬の寒さが厳しかった関係でしょうか、昨年と比べて1週間程度遅いように思います。
・この画像は3月30日の開花状況です。壁の反射熱で早めに春を感じたのか、壁際の蕾から咲き始めました。
・4月2日の開花状況です。桃の木全体を見ても、矢張り、家側の幹半分が早く咲き揃いました。
・傍で見る桃の花は美しく艶やかで、桜とは違う魅力があります。
・そして開花から10日後の4月6日に満開となりました。
古くから桃には邪気を祓う力があると考えられています。
古事記には、イザナギノミコトが桃を投げつけることによって鬼女(黄泉醜女:よもつしこめ)を退散させ、その功績により、桃に大神実命(おおかむづみのみこと)の名を与えたと記されているそうです。
桃から生まれた桃太郎が鬼を退治すると言う『桃太郎』の民話は、この古事記の記述が元になっていると云われています。
早春に地下茎から芽を出し、やがて小さな青紫の花を咲かせる草、それは「ワスレナグサ(勿忘草)」です。
今、この「ワスレナグサ(勿忘草)」の花が畑のあぜ道に咲いています。
今日は、この「ワスレナグサ(勿忘草)」の花をご紹介します。
・畑の畦道に咲いている「ワスレナグサ(勿忘草)」の花です。
「ワスレナグサ(勿忘草)」はヨーロッパ、アジアが原産で、日本には明治時代に園芸業者が輸入したのが最初と云われています。
名前の由来は、恋人のために川岸でこの花を摘み、誤ってドナウ川に落ちた青年が「私を忘れないで」と言って水中に消えたという中世ドイツの悲恋伝説に登場する主人公ルドルフが発した最後の言葉と云われています。
英名でも「Forget-me-not」と言い、和名の「ワスレナグサ」はこれを訳したものだそうです。
・青紫の小さな花ですが、とても可愛い花です。
昔、倍賞千恵子や菅原洋一が歌ってヒットした歌謡曲「忘れな草をあなたに」はご存知の方が多いと思います。
若き日を思い出して口ずさんでみては如何でしょう。
忘れな草をあなたに
作詞:木下龍太郎
作曲:江口浩司
歌 :倍賞千恵子
1. 別れても 別れても 心の奥に
いつまでも いつまでも
おぼえておいて ほしいから
しあわせ祈る ことばにかえて
忘れな草を あなたに あなたに
2. いつの世も いつの世も 別れる人と
会う人の 会う人の
さだめは常に あるものを
ただ泣きぬれて 浜辺につんだ
忘れな草を あなたに あなたに
3. 喜びの 喜びの 涙にくれて
抱(いだ)き合う 抱(いだ)き合う
その日がいつか 来るように
ふたりの愛の 思い出そえて
忘れな草を あなたに あなたに
今日は関西では馴染みが薄い「下仁田(しもにた)ネギ」についてご紹介します。
「下仁田ネギ」とは、群馬県下仁田町を中心として、その周辺で栽培される根深、夏型ねぎの品種で、白根のながさは20cmほど、直径は6cm~8㎝と他の品種のネギに比べて太いのが特徴です。
地元では「殿様ネギ」と呼ばれて親しまれている食材のようであり、その所以は、1805年(文化2年)の頃に、殿様に献上していたと伝えられていることからのようです。
先日、私が植替えした「下仁田ネギ」は、昨年秋に菜園仲間から頂いた苗を定植していたものです。
・4か月ほど経過して市販されている長ネギくらいの大きさになりました。
秋植えの下仁田ネギの収穫は、翌年の11月末~12月のであり、その間、4月頃と7月頃に植え替えを行い、更に成長に合わせて土寄せをします。
収穫までの約15ヶ月の間、土寄せていく度に太くなって行くようです。
・植替えのために畝から掘り上げたネギの苗です。
・新しく植え付ける畝は同じ場所を深く掘り下げ、石灰とバークたい肥、発酵ケイ糞を混和して畝を作り直します。
・その畝に「下仁田ネギ」の苗を深めに植え付けます。
「下仁田ネギ」は種蒔きから収穫までに14~15カ月要し、非常に手間もかかることから流通量が増えず、関東周辺においてのみ流通しているようです。
このネギは、生食では刺すような辛味がありがますが、煮たり焼いたりすると特有の風味と甘味があります。
今日4月5日は二十四節気の一つ「清明」です。
「清明」とは、「清浄明潔」の略で、桜など草木の花が咲き始め、万物に清朗の気が溢れて来る頃の意味です。
暦便覧にも「万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草と知れる也」と説明されています。
この頃は、万物がすがすがしく明るく美しいころとなり、様々な花が咲き乱れ、お花見シーズンの到来となります。
大阪南部の熊取地方では、この日に合わすかのように、サクラも五分咲きとなり、お花見シーズンの到来となりました。
・山の手台5号公園の桜と「清明」の日の清々しい青空です。
今日は畑の畦道に群生している「ヒメオドリコソウ(姫踊り子草)」をご紹介します。
「ヒメオドリコソウ(姫踊り子草)」はシソ科オドリコソウ属の多年草で、ヨーロッパが原産の帰化植物です。日本では明治26年(1893)に東京の駒場で見つかったのが最初だそうです。
名前の由来は、花の形が笠をかぶった小さな踊り子に見立てたことからつけられたようです。
草丈は10~25cm程度で、先端の方の葉は黒紫色をしており、そこから小さなピンクの花を咲かせます。
最近では空き地や道端などによく見られる雑草です。
今日は10日ほど前に長池公園を散歩中に撮影した「ユスラウメ(山桃桜)」の花をご紹介します。
「ユスラウメ(山桃桜)」はバラ科の落葉低木で、3~4月頃に白や淡紅色の五弁の花をつけ6月頃には直径1㎝程の果実が赤く熟します。
ユスラウメ(山桃桜)の原産地は中国で、日本には江戸時代初期に渡来したようです。
名前の由来は、朝鮮語の「移徒楽(いさら)」が転訛して「ゆすら」になったと云われています。
・ユスラウメの名前には梅がついていますが、花はウメとは違い、同じバラ科のサクラの花によく似ています。
6~7月頃にはこのように果実が赤く熟します。この果実は甘酸っぱい味ですが食べることができます。
・これは昨年7月4日に撮影した山の手台の遊歩道に植栽されている「ユスラウメ(山桜桃)」の熟した果実です。
(参考)
「桜桃忌」
なお、6月19日の太宰治の「桜桃忌」の「桜桃」はユスラを意味する「桜桃」とは関係ありませんが、参考のために書いておきますと、
1948(昭和23)年6月13日、太宰治(だざい おさむ)が戦争未亡人の愛人・山崎富栄と東京の玉川上水に入水心中し、6日後の19日に遺体が発見されましたが、その日が奇しくも太宰の誕生日でもあることから、6月19日は「桜桃忌」と呼ばれています。
その名前の由来は、サクランボ(桜桃)の時期であることと晩年の作品『桜桃』に因むと云われています。
散歩をしていると、各地で満開となっている黄色い「レンギョウ(連翹)」の花を見かけます。
私が住まいしている大阪・熊取町の山の手台住宅地内の遊歩道にも7~8本の「レンギョウ(連翹)」の木が植栽されており、よく剪定された枝には黄色い花が咲き乱れています。
今日は、この遊歩道に植栽されている「レンギョウ(連翹)」の花をご紹介します。
・遊歩道の7~8本の内の1本です。
「レンギョウ(連翹)」は、モクセイ科レンギョウ属の落葉低木で、原産地は中国です。
日本へは平安時代初期に渡来したと言われていますが、実際に渡来した時期は定かではなく、江戸時代前期に栽培の記録があることから江戸時代だと言う説もあるようです。
・傍で見る、レンギョウの花は黄色一色でとてもきれいです
和名の「レンギョウ(連翹)」の名前は漢名の「連翹」を音読みしたものと言われています。
「レンギョウ(連翹)」の果実にはルチン(rutin)などの成分が含まれており、漢方薬として利用されています。
漢方医学では「連翹」と呼ばれて、解熱剤、消炎剤、利尿剤、排膿剤、腫瘍・皮膚病などの鎮痛剤に用いられているようです。
・山の手台の遊歩道のレンギョウ(連翹)です。
詩集『智恵子抄』で知られている詩人の高村光太郎は、連翹をこよなく愛したそうです。
このため光太郎の命日である4月2日は「連翹忌」とも言われているそうです。
しかし、最近は許されない嘘をつく人がむやみやたらに増えました。
前総理大臣然り、大阪地検然り、警察官僚然り、エリート公務員然り、数え上げれば切がありません。
今日は許される嘘、「エイプリルフール」の由来について調べました。
「由来」
エイプリルフールの由来には諸説あるようです。
・フランスの「グレゴリオ暦導入説」
その昔、フランスでは3月25日を新年とし、4月1日まで祭りを開催していましたが、1564年に国王シャルル9世が1月1日を新年とするグレゴリオ暦を採用しました。
これに反発した人々が4月1日を「嘘の新年」として馬鹿騒ぎするようになり、これがエイプリルフールの風習になったとする説。
・「インド仏教説」
インドでは春分から3月末まで修行を行いますが、、終わるとすぐに迷いが生じることから、4月1日を「揶揄節」と呼んで、からかったと言う説。
・「古代ローマの祭り説」
古代ローマでは、この日だけは主人が奴隷に仕え、道化師(FOOL)が聖職者になるといった逆さまのドンちゃん騒ぎが行われたとする説です。
・「ノアの箱舟説」
ノアは洪水が収まってきた頃どこかに陸地はないかと鳩を飛ばしますが、鳩は水の無いところを見つけることが出来ず、無駄足を踏まされてノアの所に戻ってきました。この日が4月1日だったとする説。
このうち、フランスの「グレゴリオ暦導入説」が最も有力と言われているようです。
日本では、大正時代に西洋からエイプリルフールの風習が入って広まったとの説がありますが、「パチンコの負けをごまかすために、この日にすりにあったと嘘をついた者がいた」ことからとする説もあるようです。
エイプリルフールには、外国では新聞が嘘の内容の記事を掲載したり、TVニュースでジョーク・ニュースを報道したりといった事が広く行われているようです。
イギリスなどでは、4月1日の正午までに限るとも言い伝えられており、実際、10年くらい前にイギリスのBBCが、南極のペンギンが空を飛んでアルゼンチンまで辿り着いたとの報道がされていたのを記憶しています。
その時の映像がiinaさんのブログ“空飛ぶペンギン”にありますので興味のある方はアクセスしてみてください。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/a0f77477e58c8720a1add289141782f5