らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

紅孔雀の歌

2015-11-09 | ナツメロ

You Tube を探していたら、懐かしい曲が見つかりました。
子供の頃ラジオでよく聞いた紅孔雀の歌です。

「紅孔雀」は北村寿夫原作の新諸国物語、いわいる子供向けの時代劇で、その第1作として書かれた小説です。
昭和29年(1954年)にNHKでラジオドラマ化され、1月4日から12月31日までの1年間、NHK連続ラジオドラマとして放送されました。
その主題歌となったのが「紅孔雀」の歌です。
子供の頃、ラジオでよく聞いていたので今でも歌えます。

皆さまの中にはこの歌をお聴きになった方もおられると思います。
歌詞を書いておきますので、御存じの方は口ずさんでみては如何でしょうか。

それでは井口小夜子が歌う「紅孔雀」の歌をお聴きください。



  紅孔雀の歌

まだ見ぬ国に 住むという
紅きつばさの 孔雀どり
秘めし願いを 知るという
秘めし宝を 知るという

まだ見ぬ国は 空のはて
青き潮の 海の底
深き眠りに うずもれて
今もこの世に ありという

まだ見ぬ国に 住むという
紅きつばさの 孔雀どり
秘めし願いを 知るという
秘めし宝を 知るという


盛り塩

2015-11-08 | 雑学

料亭や料理店、居酒屋などの水商売の店の入り口に、山のような形に盛られた塩を目にしたことがありませんか?
現役の頃、北新地を歩くとよく見かけたものですが、これは『盛り塩』と言って、商売繁盛と客を呼ぶための縁起を担ぐ慣わしなのです。

そこで今日は「盛り塩」の由来について調べました。
「盛り塩」の習慣は中国の故事からのようです。

その故事とは、今から2200年前に中国を統一した秦の始皇帝に纏わるものです。
皇帝には沢山の女性がおり、毎日どの女性を訪ねるか、自分で選ぶのが大変なので、牛車に乗ってその牛が止まった所の女性と夜を過ごす事にしました。

江戸時代の大奥と同様、皇帝の子供を身ごもれば、強大な権力を手にすることができます。
そのために、女性たちは皇帝が来るのを首を長くして待っていましたが、ただ待っていてもいつ皇帝が来てくれるのかわかりません。

3000人と言われているお妾さんの中には知恵のある女性がいるものです。
ある女性が牛が好む塩を牛車が通る時間帯に合わせて置いていたところ、何とその女性の考え通り牛車はその前で止まり、皇帝はその女性の家に足繁く通うようになったのだそうです。
そこから塩は縁起が良いという意味でいい伝えられるようになったということです。

この皇帝争奪戦と、日本に古くから伝わる『清めの盛り塩』の習慣が一緒になり、盛り塩の風習が生まれたのではないかと言われています。
日本の『清めの盛り塩』とは、塩が清浄や生命力の更新といった意味合いがあることから、葬送儀礼では葬式後に塩を撒いたり、神道では神棚に盛り塩を供えると言った風習のことです。

このように「盛り塩」は、人寄せの為の縁起担ぎとして、そして、神事・葬送儀礼としてのお清めの塩、神に捧げる神聖な供え物として、日本では神事・仏事の盛り塩として一般に広まったと見られるということです。

・盛り塩です(ネットより)



大阪の地名

2015-11-07 | 地元紹介

今年は大坂夏の陣から400年です。
そして今月22日は大阪府知事と大阪市長のダブル選挙の投票日です。

大坂夏の陣とダブル選挙、どのような関係があるのかって?
全く関係ありません。
実は、大阪の地名について調べたので比較のために二つの「大坂」「大阪」を書き上げただけです。

夏の陣の「大坂」は土偏(つちへん)の「坂」を使用していますが、現在の大阪は阜偏(こざとへん)の「阪」を使用しています。
昔は何故「土偏の「坂」を使用したのでしょうか?

調べてみると、明応5年(1496年)9月、蓮如上人が大坂石山の地(現在の大坂城の辺り)に、石山御坊(後の石山本願寺)を建立しましたが、この付近の地名は、元々、『小坂』と呼ばれていました。
ところが蓮如上人は縁起をかついで「小坂」を「大坂」に変えたのだそうです。
しかし、この時点では「大坂」と書いて『おざか』と呼ばれていました。

その「大坂」が現在のように「大阪」と書かれるようになったのは、明治3年のことです。

東京が首府と決められた明治維新後、大坂は衰退の一途をたどっていたのですが、これは大坂の「坂」が「土に反る(返る)」と読めることから、人々が忌み嫌ったのだそうです。
そこで、「盛ん・多い」という意味を持つ「阪」が使われるようになったということです。
当時は公文書にも「大阪」と「大坂」が混在し、かなり混乱していたようですが、明治10年になると、ようやくその混乱も収束し、公文書の印鑑なども「大阪」に統一されました。

なお、この大阪の漢字の変更を模倣したのが三重県の松阪市です。
『松阪の町の歴史』の解説には、
「松坂」が「松阪」となったのは明治22年の町村制実施の時で、その範となったのは大阪であり、「大坂」が「大阪」になったのは明治3年であると説明されているそうです。
また、『松阪開府400年史』でも、「大坂が大阪になったので、「松阪」に決定したと伝えられているということです。


もみ殻クンタン作り

2015-11-06 | 家庭菜園

先日、地元の農家から籾殻を頂いていたので、「籾殻燻炭(くんたん)」を作りました。
今日はその過程をご紹介します。

昔は、籾殻焼きは農家における晩秋の風物詩でした。
私が子供の頃はあちらこちらでよく見かけたものですが、近年は全く見かけません。
田舎の父が行っていた籾殻焼きは、穴を開けた缶の上に煙突を立て、缶の中に火種を入れて缶を熱し、その周りに籾殻を積み上げて燻(いぶし)焼きにするものでした。

私は缶や煙突の用具を持っていないので、直接積み上げた籾殻の中心部に藁や木を燃やして火種を作って燻す方法で行いました。
以下その過程をご紹介します。

①籾殻は一つの大きな山にすると時間がかかり、夕方までに終わらないので、4か所に小分けして燻しました。
 中心の窪んだ中に火種を入れています。


②中心の火種は横に広がって行くようです。周りの方から黒く焦げてきています。


③各々の山は、全体を燻すように鍬でかき混ぜ、その上に新たな籾殻を追加します。


④追加したモミ殻も横から焦げてくるので、上記同様よくかき混ぜます。


⑤それを繰り返していくと、全体が燻されてきます。


⑥煙が少なくなると完成に近づきますが、この時点でも内部には焼けていない籾殻が残っているので、更に山を崩してよくかき混ぜます。


⑦煙が出なくなると出来上がりです。
  手前の二山は完全に煙が止まりました。この後、広げて水をかけて火を消します。


⑧火が残ると灰になってしまうので完全に消えるまで水をかけます。


⑨焼き終えた4つの山を広げて水をかけたところです。
  今回のクンタン作りは朝8時前から始めて夕方5時過ぎまでまでかかりました。


今年の「籾殻燻炭」作りは肥料袋に5袋できました。
この燻炭は・畑や鉢植の土に混ぜて土壌改良剤として利用します。

家庭菜園なので色々な事に挑戦して楽しんでいます。

・出来上がった5袋の「籾殻燻炭」です。



シニアクラブ文化祭

2015-11-05 | 地元紹介

昨日のオープンカフェに続き、今日も地元の話題です。

今日ご紹介する「シニアクラブ文化祭」は、毎年、文化の日に開催されている定例行事です。
この文化祭は、自治会会員のうち概ね60歳以上で、入会を希望する者で組織されている長生会が主催する会員たちの作品展示会です。
各種の特技を持つ会員の方が、この日のために準備した自慢の作品を展示しています。
会場では、作者やその知り合いの人たちが展示物を観ながら親睦を深めていました。

・文化祭が催されている「老人憩いの家」です。


会員の力作の一部をご紹介します。

・高齢者の間で、今、流行っている絵葉書スタイルの作品です。



これも絵葉書スタイルです。


・俳句を短冊に書いた作品です。
 中央の句は「立待ちの 月見今宵は 雲隠れ」です。


こちらは油絵や水彩画の展示コーナーです。


・木工作品もありました。


・生け花です。
 今年は出展が少ないようです。


・掛け軸に仕上げた見事な「書」です。


高齢者の皆さまの隠れた才能の一端を拝見しましたが、何れ劣らぬ素晴らしいものでした。


秋のオープン・カフェ

2015-11-04 | 地元紹介

昨日、熊取町の山の手台では、恒例の「秋のオープン・カフェ」が催されました。
今年は文化の日が開催日とあって、シニアクラブの文化展も催されていたので、今日と明日に分けてご紹介したいと思います。

今日はオープン・カフェをご紹介します。
「オープン・カフェ」は、春と秋の年2回、“フラワー山の手”が主催して、地域住民とのふれあいや親睦を図る目的で開かれているもので、今回が21回 目となります。
開催日前日の一昨日の熊取地方は、夜半から午前中にかけて雨が降り、午後も厚い雲に覆われた一日でしたが、開催日の昨日は打って変わって、快晴に恵まれた穏やかな秋日和となりました。
主催者の日頃のご努力に対して、お天道様が暖かい秋の日差しをプレゼントしてくれたのかも知れません。
晴天に恵まれた今回のオープンカフェは、例年にも増してたくさんの来場者があり、食べ物売り場では予定していた個数が早々に売り切れてしまいました。

なお、“フラワー山の手”とは、山の手台の老人施設や公園、遊歩道などに草花を植栽して、住みよい環境を作るべく活動している山の手台のボランティアグループです。

・会場となった住宅地内の集会所 “老人憩いの家”です。
 憩いの家ではシニアクラブの作品展が開かれていたので、明日ご紹介します。


・老人憩いの家の庭がオープンカフェの会場です。


・弁当とケーキのコーナーです。
 毎年、このコーナーは人気があります。
 特にNさんの手作りケーキは美味しく、1個100円と安価な事から一人で数個購入する人もいて、午前10時のオープン後すぐに売り切れてしまいます。


・鉢植コーナーです。
 小鉢に植えられたお花や多肉植物が所狭しと並んでおり、住民の方がその中から気に入った鉢を買い求めていました。
 この小鉢は、Kさんが自慢の陶芸で焼き上げたもので、その鉢に多肉植物やお花を植え付けた、全てが手作りの盆栽小鉢です。
 このコーナーも人気があります。


・焼き芋コーナーです。
 中央の男性S氏が家庭菜園で栽培したサツマイモを使用した焼きイモです。生産から販売まで正に全てが手作りです。
 このコーナーに近づくと、焼き芋の美味しそうな香りが漂っきます。


・住民同士のふれあいと、買い求めたものを飲食したり、休憩するためのテーブルが用意されています。
 早速、買い求めた飲食物を食べながら、親睦を深めていました。


・これが会場となった憩いの家の庭です。
 以前はチヂミ(韓国風お好み焼き)のコーナーもありましたが、今回も前回も出店されていませんでした。
 近年の韓国における反日行動の影響で、出店しても売れないのでしょうか?(勝手な想像です)



平安貴族の白粉塗り

2015-11-03 | 雑学

平安時代のドラマを観ていると、貴族たちが顔を白く塗っていますが、なぜあのように白く塗るのでしょうか?
不思議に思ったので調べてみました。

平安時代には照明がなかったので部屋の中は昼間でも薄暗く、夜になれば蝋燭をつけても相手の姿がぼんやりと浮かぶ程度の明るさでした。
そのような薄暗い中で、少しでも顔が目立つようにと白粉(おしろい)が塗られているということでした。
貴族にとっては「目立つ」事は美しい事だったようです。

白粉(おしろい)が初めて中国からもたらされたのは7世紀前半の事です。
遣隋使によって運ばれてきましたが、当時はまだ航海術が未熟だったことから、極めて高価だったそうで、ごくごく一部の人たちのものでした。

692年(持統6年)に沙門観成(しゃもんかんじょう)が国産初の鉛で出来た鉛白を完成し、続いて713年(和銅6年)に水銀で出来た軽粉が登場すると、貴族の間に白粉が爆発的に広まったそうです。
しかし、鉛や水銀が原料だったため、貴族たちの健康は白粉によって蝕まれ、早死にすることが多かったと言うことです。

この白塗り文化は江戸中期の元禄時代には町民にまで広まりました。
そして、1906年(明治39年)に資生堂の前身である西洋調剤薬局が「肉色粉おしろい」と言う肌色の白粉を発売するまでのおよそ1200年間続いたそうです。

その後、無鉛白粉の開発や舶来化粧品の輸入増などで化粧は一般化し、更に第二次世界大戦後は、メーキャップファウンデーション・アイメーキャップ類・男性化粧品などが発売され、化粧品も化粧法もまったく世界共通のものとなっているということです。


南国土佐を後にして

2015-11-02 | ナツメロ

先日、NHK・Eテレの番組「団塊スタイル」で、~いつもそばに歌がある~ペギー葉山と言うタイトルで、ペギー葉山さんがゲスト出演していました。

ペギー葉山(81歳)さんは学生のころにジャズにあこがれ、進駐軍のクラブで歌い、その後プロの歌手になったそうです。
彼女が歌った「南国土佐を後にして」や「学生時代」は大ヒット、他にも、ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」と出会い、「ドレミの歌」の日本語の作詞も手がけたということです。

ぺぎー葉山さんが「南国土佐を後にして」を最初に公の場で歌ったのは、昭和33年(1958年)、NHK高知放送局のテレビ放送開始記念番組の収録のときです。
当時はジャズ・ポピュラー歌手として知られていましたが、番組サイドから民謡調の曲「南国土佐後にして」を依頼されたのだそうです。

ジャズ歌手を目指していた彼女はあまり乗り気ではなかったので、「笑顔を作らず、渋々、一回だけ歌えばいいや、という気持ちで…」歌ったと云う事でした。
ところが、この曲への問い合わせが殺到し、レコード会社から収録を求められ、昭和34年(1959年)にキングレコードから発売されると、たちまち100万枚の大ヒットを記録したそうです。

この番組で、久しぶりに「南国土佐を後にして」を聞いて懐かしくなり、今日のブログに取り上げることにしました。

では、ペギー葉山が歌う「南国土佐を後にして」をお聴きください。



植物の血液型

2015-11-01 | 雑学

昨日に続いてある情報誌からのクイズです。

「問題」
植物にもある血液型で、「そば」は何型でしょうか?
 ①A型
 ②AB型
 ③B型

この問題を見て、皆さんの中には、「植物に血液型など有るわけないだろう。」と、お怒りの方もおられると思います。
その謎解きは後ほどするとして、上記の正解は②のAB型です。

この問題はある情報誌からですが、その記事によると、以前、東北地方で起きた殺人事件の捜査中に不思議な出来事があったそうです。
その出来事とは、被害者が使っていた枕からAB型の血液反応が発見されたのです。
ところが、被疑者の血液型はAB型ではなかったので、警察は、“すわ犯人のものか?”と色めき立ちましたが、そこには血痕が見当たりませんでした。
枕を解体して再度調べた結果、枕の中に入っていたそば殻がAB型の血液反応を見せたのだそうです。
これにはさすがの鑑識もビックリしたと言います。

ここで冒頭の「植物の血液型」の謎解きです。
勿論、植物に血液が流れている訳ではありませんが、一部の植物の中には糖たんぱくと言う血液の凝固を起こさせる物質が含まれているそうで、
その物質が人間の血液型と同じような反応を示すのだそうです。
このような血液型(物質)を持っているのは植物全体の1割程度と考えられているそうです。
人間の血液型はその人の性格判断に利用されますが、当然のことながら、この物質(血液型)では植物の性格判断はできません。

因みに、植物が持っている血液型(物質)は次の通りです。
・A型・・・アオキ、ヒサカキ
・B型・・・ツルマサキ
・O型・・・サトイモ、キャベツ、大根、カブ、ブドウ、サザンカ、ツバキ、など
・AB型・・バラ、アケビ、そば、カエデ等

植物に血液型があるなんて驚きました。