三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

三内丸山遺跡

2005年10月13日 05時48分15秒 | Weblog
古民家、ではないよなぁ。
でも米づくりの吉野ヶ里と対比できるような、縄文の首都、といったロマンを掻き立ててくれるのが三内丸山遺跡です。
青森市の市街からやや離れた丘陵地になった地域ですが、昔はすぐそばに海が迫っていて、豊かな海の幸と、DNA的に同一であるとされる栗(ということは栽培)などの山の幸の豊かな土地だったとか。採集生活の時代としては、きわめて大きな集落が栄えていたと言うことです。土器の発明から、栗などの木の実を食することがきわめて容易になって、縄文の食生活は飛躍的に豊かになったのだそうだ。
海から上ってくる坂道には、その沿道両側に死者の墓が埋葬されていた。縄文の死生観からすると、ひとの交流の道に死者をあえて介在させるという意味は何だったのだろう。 そして、復元された物見の塔のような建築物。この建築物の柱の掘っ立て技術は、こんにちで考えてもたいへん高い技術レベルだと言うこと。

もう、いろいろな想像力がわき出てきて、とまらない。
農耕だけに依存しなかった縄文世界では東日本、北方日本がきわめて人間の生存に適地だったそうです。ものの腐敗進行が早く、しかも食料採取が難しいという夏を長くもつ南方はむしろ、人間生活に適していなかったのだそうなんです。食糧の冷蔵貯蔵が可能な冬をもっていた北方は、縄文世界で日本の主邑であったのは自然なことだったのだとか。

北海道に暮らすものにとって、こういう事実が近年、考古学の発展で明らかになってきているのは、なんとも愉快な気分にさせてくれます。
もちろん、われわれが米を生産し続けてきたDNAの末裔であることは、紛れもないとしても、この私たちの暮らす土地の寒冷条件が、違う意味合いで認識できるようになってきたことは、なんともわくわくさせてくれることだと思うのです。
機会があれば、ぜひ多くに人が体験してほしいものです、三内丸山。
コメント
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