三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【安藤忠雄展 「住むきびしさ」の芸術止揚】

2017年11月17日 06時41分21秒 | Weblog
前回の東京出張時、見学しようとしていたらなんと「火曜日休館」だった(泣)、
東京乃木坂の国立新美術館で開催中の「安藤忠雄展」ようやくチェックイン。
なんですが、乃木坂駅で降りて国立新美術館方面に向かったら、
駅構内に「臨時券売所」ができていた。
どうも当方の認識不足のようで、大勢の「高齢者」(失礼)のみなさんが
みんな吸い寄せられるようにこの展覧会に足を向けているではありませんか。
まぁ平日の午前中という時間帯と言うこともあったのでしょうが、
建築志望の若者や、中国観光客以上に、高齢の方が目立った。
みんなちょっとめかし込んで大人の美術鑑賞、エスプリ感を発している。
おお、都市ゲリラ・安藤忠雄はいまや、国民的人気「芸術家」ということなのか。
こういった薫り高い文化嗜好対象になったのだとご同慶の思いが募ってくる。
どうやら、わたしごとき人間には計りがたい巨大さが安藤さんにはある。

「わたしに住宅の設計を依頼する人には、住みにくいですよとハッキリ言う。
そういう生きることの大変さに意味があると思えるひとと、
いっしょに住宅を作ってきた。寒いツライという人には、頑張れと言ってきた」
と例のダミ声のイヤホン解説が語りかけてくる。
さすがに図表で掲示されていた住宅作品の施主さんに北海道の人はいなかった。
「寒いツライ」を「服をたくさん着込めばいい」と説諭されて、
なお、その大先生と「生きるツラさ」の芸術的境地を共有したいと考える人は、
いないことはないだろう。またそのことを全否定もしない。
しかしそれが人間の暮らし方として高位であるとは言えないし、
そういった無断熱「自然」住宅が「優れている」などとは絶対に言えない。
安藤忠雄さんは、わたし的にはきわめてアンビバレンツな存在であります。
<注:アンビバレンツ=同じ物事に対して、相反する感情を同時に抱くこと。
一人の人物について、好意と嫌悪を同時に持つ、などのような場合が該当する。>
住宅建築についてはその造形感覚について刺激的ではある。
それこそ写真表現者的には、思わず引き込まれるような場の緊張感がある。
しかしどう考えても、ああしたコンクリート打ち放しの身体的環境が、
生身の人間に対してどうであるか、容易に想像が付く。「寒いツライ」。
一方で、いまや世界的に展開している非住宅の建築群について、
「多くの人間が集まる場の創造力」については、同意する部分が多い。
先般、講演会で氏の口から聞いた札幌真駒内霊園の「頭大仏」については、
その発想の面白さ、天才ぶりに大いに共感した。
札幌に住んでいる人間として、安藤さんが「手を加える」前の大仏には
世間一般同様、どうしても承服しがたい印象を持っていた(笑)
しかしその大仏を小山を築いて被覆し、一方で地面レベルからトンネルを
あえてくぐり抜けさせて、あふれる光の中に大仏を再見させるプランニングは、
たぶん茶室的な「出会い」創造コンセプトと、深く驚かされ惹き付けられた。
トマムの「水の教会」でも、このコンセプトは一貫していたと思います。
建築はまずはその場で感受するものだと思うので、
安藤さんの建築は大好きで、あちこちめぐり会うことがやはり楽しみです。

安藤さんはスフィンクスみたいなもので、
たぶん、相対する人間を映し出す鏡のようなものであるのかも知れませんね。
かれが出現したときの時代の建築関連メディアの人たちにとって、
たまらない妖しさが魅力としてあっただろうことは疑えない。
ただひとつ、安藤さんが世に出てきた同時代に、
北海道ではコンクリートブロック外断熱の住宅群が地域の建築家たちによって
創造されていた。わたしなどもその創造運動に関わってきて、
自宅もそのように建てた人間からすると、安藤建築にある無常観は持っている。
はるかな後世になって、安藤さん的コンクリート打ち放し無断熱住宅建築と、
初めから人間環境優先で考え「外断熱」で建てられた北方型ブロック住宅建築の
どちらが歴史的評価を得るのかについては、しかしまだ諦めているワケではない。
コメント
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