今回の旅の訪問先で面白かったのが、
石舞台見学から足を伸ばした飛鳥寺、飛鳥坐神社でした。
きょうは、こちらの「飛鳥寺」のことを探究してみます。
写真は飛鳥寺の現「本堂」と下の写真は東大寺大仏殿外観。
飛鳥寺の建築としての成り立ちとか、プロセスについてスタディ。
「古寺巡訪」という個人の方のブログを参照しました。
草創・開基
(1)建てたのは蘇我馬子。
用明2年5月、蘇我馬子は政敵・物部守屋を倒した。この戦いの結果、
蘇我馬子はほぼ全権力を手中に収める。それを確固たるものにするために
この飛鳥寺造立を行った。完成には約21年を要した。
・崇峻元年(588年)造営開始、
・推古4年(596年)一応の完成。馬子は息子膳徳を寺司にし僧を居住させる。
(2)飛鳥寺は我が国最初の仏教寺院
飛鳥寺は当時の朝鮮半島の先端技術によって建立された
本格的な伽藍をもった我が国最初の仏教寺院。
●建築技術は古代朝鮮半島の先端技術が導入された
飛鳥寺は蘇我氏と結びつきが強かった渡来人・朝鮮の百済国などから
6人の僧、寺大工、露盤博士、瓦博士、画工などの派遣を受けたと
日本書紀にあり彼らの指導の下に建立されたと考えられている。
仁和3年(887)と建久7年(1196)の火災によって伽藍が焼失し、
室町時代以降は廃寺同然となった。
江戸時代の寛永9年(1632)と文政9年(1826)に、旧金堂の跡に
小寺院が再建され「安居院」と称した。この小寺院が現在に至っている。
・・・というような沿革になっている。
日本最古の建築会社・金剛組は聖徳太子の「四天王寺」建設工事に
際して朝鮮半島から日本に移住してきたとされるので、
ほぼ同時代に建てられた最先端木造建築デザイン・技術とされる。
<578年、四天王寺(現在の大阪府)建立のため聖徳太子によって
百済より招かれた3人の宮大工(金剛、早水、永路)のうちの1人である
金剛重光により創業。江戸時代に至るまで四天王寺お抱えの宮大工となる。
〜Wikipedia 金剛組のページより>
その創建時のデザインが残滓として、いま残っている建築に
活かされているのかどうか、定かではない。
いま残っている寺院建築はまことにこぢんまりとしたたたずまい。
奈良の遷都に際して、寺院としてはそちらに移転して行って
こちらはその抜け殻のような位置付けのようなので、ムリもありません。
しかし、有名な止利仏師作になる「飛鳥大仏」が安置されている。
こういった飛鳥寺創建当時の状況から推移していって、
奈良・東大寺が「大仏開眼会」を行ったのが、天平勝宝4年(752年)。
この間、150-60年の歴史経過があるけれど、
この飛鳥の地を訪れてみると、ヤマト王権としての段階から、
「日本」国号を定めて、アジア世界で独自の「中華」国家をめざした
そういった空気感が、なんとなく感覚される。
行ってみて、ほんとうに小さな地域にこぢんまりと端座しているので、
この間の「国家創始」の動きの急拡大ぶりに驚かされます。
古代においても日本は経済成長国家だったという説がありますが、
そんな印象が強く感じられました。