一昨日も堺の「灯台」について書きましたが、
関西に頻繁に来るようになると、どうしてもこの街が気になる。
日本史をまなぶと、多くの時代のポイントとして
この地域、堺という街の存在が大きく刻印されていると思う。
若いときの信長が、青春の旅行先として選んだ街というイメージが強い。
その後、武将としての成功を収めて京都の施政権を得たときに
かれが最初に手掛けたのが、堺に対しての課税・権力奪取だったのは、
多くのことを日本人にイメージさせたのだと思う。
WEBで「この街アーカイブス」というページを覗いてみると
こんなふうに紹介されていた。
〜堺周辺に人が定住し始めたのは旧石器時代頃といわれ、
古墳時代には、「仁徳天皇陵古墳」を含む古墳群が造られた。
摂津・河内・和泉の三国の国境があったことから、
平安時代に「さかい」と呼ばれるようになった。
室町時代になると商業が発達、町の自治は有力商人の集団である
「会合衆(えごうしゅう)」により行われた。また、国際貿易により
大きな富を得た堺は、戦乱から町を守るために周囲に濠をめぐらせた
「環濠都市」となった。江戸時代には、「元和(げんな)の町割」や、
「大和川」付替え工事など、現在の堺にも続く町の枠組みが作られ、
明治時代以後は鉄道も開通し、急速に近代化が進んだ。〜
海外と海を接して繋がり、
権力の中心地域ともながく隣接し続けてきた地域として、
日本の「交易」の中心的地域であり続けていたのだろうと思う。
現代に連なる「関西」精神のあるマザーを形成したのではと
いつも思い続けている街です。
滞在といっても4日間で、また日中は関西全域を走り回っていたので、
最後の日にちょっと利休の屋敷があった場所に建てられた
「さかい利晶の杜」というサイトに寄ったくらい。
利晶というのは利休と与謝野晶子らしいのですが、
わたしの関心はもっぱら利休さんということになります。
かれは秀吉から死を賜ったという劇的な幕切れをもって
稀有な人生を生きた日本人としての精神史に名を残すことになった。
賜死というのは、権力者がその配下に対して
自殺しろということを強制することですが、
そのことによって、死が非常に印象的になるといえる。
とくに日本人的メンタリティでは、このような死は極限性を
そこに投影させるように思う。
茶道という利休由来と言ってもいい「家元」制度にとって、
この利休の死はそこからの永遠の生を得たものだったと思われます。
そういう意味ではかれはもっとも意味のある死を死んだ。
そのような死があったから、かれが唱えた「わびさび」精神は
大きな陰影を受けることが出来、長い精神史を持てたのではないか。
たぶん、義経の死と並んで日本人のメンタリティに大きな存在になった。
住宅建築に於いても、茶の間とか茶室文化とか、
非常に「日本的」な空間嗜好性を日本人に植え付けた存在。
日本人にとってどうしても気になる、どこまでも気になるのが
この街であり、そこで生きた利休さんという人なのでしょうね。