三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

浄土への思い_2

2006年08月13日 07時51分42秒 | Weblog

さて、きょうは朝から墓参り。
年々、朝のお参りラッシュの混雑が激しくなってきているなぁと感じます。
ことしはきょうがピークなんでしょうかね。
わが家は同じ墓地に、わたしの家の父母が眠る墓と、
カミさんの実家の墓、さらにカミさんの母の実家の墓と3つの墓が
一カ所にまとまっていて、墓参は便利なんですが、
さすがに行きも帰りも、まだ7時頃なのに、チョー混雑しておりました。
でもまぁ、無事終わって、なんとかこころに安堵感が広がります。
お盆に墓参りって、アジア人共通のような習慣でしょうが
先祖との同一性を感じる機縁ですね。
やっぱ、捨てがたい精神性をもったイベントです。

写真はきのうも触れた龍安寺の石庭です。
禅、という世界を視覚的に表現した傑作の庭園です。
毎日、この石庭は丹念に掃除したり、管理し続けてきたのだろうな、
その年月の積み重ねだけでも、畏敬の念を起こさせてくれます。
訪れるたびに、石庭に向かって座り込むのですが、
雑念と妄想のみわき上がる罰当たりな自分の存在を思い知らされる庭です(冷や汗)。
この石庭は、開園以来、さまざまな俗説を生んできたようですね。
いわく、海に浮かぶ島々だとか、いや宇宙を表しているとか、
こじつけに終始してきていますよね。

しかし、石だけで、なにごとかを表現しようとしたことは間違いがなく
その超表現主義とも言える意志の力には
ひとを圧倒するようなパワーを感じます。
そうしてこの庭を訪れる人たちと、この庭は長い年月、
対峙してきたのですね。
まったく、表現をひとつのなりわいとしているものには
揺り動かしがたい、大きな山のような存在だと、深く思い知らされます。
この庭が表現しようとしたのは、やはりなにごとかの
宗教的な思い、涅槃浄土への切なる思いであっただろうと思い至るとき、
自分自身も、こういう文化世界のなかに存在することに
深くわき上がってくるものがあります。
いつ訪れても、結局、「これはなんなのだろう」という問いを
内語として発し続けながら、なにひとつ悟りうるものがなく、
ただただ、煩悩と迷いの世界から抜け出せないのが、凡人なのだろうと思います。

お盆に、ふと書いてしまいました。
わけわかんないブログで恐縮です。
みなさん、よい夏休みをお過ごしください。
って、ブログはエンドレスで毎日更新しますので、またごらんください。
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