前九年、後三年戦争で勝利を収めながら、
結局、東北北部地域の覇権を握られなかったのだろうか?
というのが疑問です。
武門のライバル、平氏や秀郷流藤原氏に対して
常に劣勢だった源氏は、この奥州制覇に命をかけていたと思われます。
で、戦闘には最終的に勝利したのに、
公家社会での政治的戦いで、無惨に敗北します。
源氏も考えながら、公家政治家連中とも交渉しながら、
軍事行動を行っていただろうから、
ことは単純ではないのだろうけれど、
軍事面では配下に従っていたにすぎない藤原清衡に
政治的には完敗を喫してしまっている。
清衡という人物、秀郷流武門藤原氏の流れを汲み、
同時に北東北世界での盟主でもあるという存在に負けてしまったと言える。
なぜなんでしょうかね?
考えられる理由は、公家社会の興味はどこにあったか、ということでしょうか。
公家にとっては、衣川から北の北東北世界は
自分たちにとって、どういう意味があったのか。
荘園とかの直接的な利害について、たとえば源氏が力を持ってしまえば
その収奪構造の維持が難しい。
さらに、それ以外の馬だとか、金、北方交易品という
貴重な北東北の物資についての「安定的管理力」が
やはり「現地官人」の流れを汲む勢力のほうが、より高いと判断したのではないか。
そういう意味合いから考えると、
朝廷にとって、北東北は貿易をする相手であって、
その相手には、安定的物品調達力を最優先に考えたということ。
このあたり、複雑な経済的利害関係が渦巻いている感じがいたします。
源氏の流れを汲む、頼朝がほぼ1世紀後に
かれの祖父が安倍氏の頭領を処刑した「厨川」で、
奥州藤原氏の頭目を残酷に処刑した故事は
どうもこのあたりの政治的な要因が大きかったのではないかと思います。
藤原氏の追討に対して、朝廷の追討令が下りなかったということは
その辺で、いかに朝廷に対する奥州藤原氏の政治的影響力が大きかったのか、
ということを表してもいると思います。
本日は、まったくの歴史好きブログであります。
ではでは。
写真は、中尊寺の一建物に立っていた卒塔婆です。
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