きのうまでは明治初年、屯田兵の住宅を検証してみた。
やはり公営住宅としての機能性格が似通っていた江戸末期の
下級武家の公営住宅がその原型だったことが浮かび上がってきた。
江戸末期の八王子千人同心組頭の家と琴似・屯田兵屋との設計類似は
同時代の観察者からも指摘が遺されていました。
では、一般の移住者・入植者の状況はどうであったか、
こういった建築は保存されることはなく、また写真記録もほとんどない。
ただ、司馬遼太郎の北海道歴史紀行文に
明治開拓初期、札幌市内に建てられていた移住者の「小屋」を
開拓使の官人たちが火を点けて回っていた、という一文が残っている。
説明として、当時は北海道移住には「補助金」なども支給し、
それなりに官費も使って、北海道の開拓・定住人口の増加を
積極振興していたのに、その移住に対しての官給資金をなるべく残し
とりあえず「家を建てる」という条件をクリアさせるうわべだけの
ギリギリの「小屋がけ」で済まそうとしていた様子を見かねて
「こんな不正は許さない」という官人の心理からだった、とされていた。
こういった事情なのでもちろん正規記録として残るわけもなく、
明治初年、混乱期開拓地での住宅の実相状況をただす方途はないけれど、
脈絡としては、理解出来なくもないとは思われた。
一方、上の写真は北海道の公的な記録として残された写真で
「終戦直後」の北海道入植者の小屋がけの様子。
その下の「間取り図」は明治末年・大正初年当時のわが家、
北海道岩見沢市近郊・栗沢村に入植当時建てられた住宅の「記憶図」。
明治初年と終戦直後、北海道への日本人の受け止め方がどうであるか、
確実に確かめる術はないが、終戦直後には北海道は全国一の人口だった。
空襲で焼け野原になった首都東京から、農耕可能な土地ということで
北海道に生きることを選択した人は多かった事実がある。
敗戦という荒廃のなか物資のレベルは明治初年と大差のない状況、
とりあえず「着の身着のまま」というなかで建てられた住宅、
という意味では明治初年との近似性根拠は高いと想像できる。
とりあえず周辺の木を伐採して建築構造をつくり、
そこに同様に採取した萱などのストロー状繊維植物で屋根を掛ける。
徐々に壁に使う板材を切りだして張っていく、というような
小屋がけから木造住宅へという段階ステップを踏んでいったに違いない。
見よう見まねの建築技術。写真ではすでに構造が傾斜している・・・。
まだしも明治初年の方が官の支援が全面的に得られただけ
居住生活環境としてはマシであったかも知れない。
また一方で、開拓の最初期というのは北海道の土地は「地味」が豊かで
その農産品は驚くほどに大きくでき高品質なものが採れたとされる。
人間農耕の歴史が及んでいなくて集積されていた土壌自体に
積層されていた自然肥料、落葉腐葉土品質がきわめて高かった。
今日に至るまで「食の北海道」というブランドバリューが残り、
同時に終戦直後、北海道に行けばなんとか食えるのではないかという
そういった地域の特性評価が形成されたのも事実だっただろう。
こうした状況の中で住宅問題について、北海道という地方政府は
その寒冷気候での「安定的な人口定着」というテーマを抱え込んで
全国最高の住宅性能研究・実践に奮闘するようになっていった。
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