三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

暖房の歴史

2009年01月02日 07時36分00秒 | Weblog



写真は昭和年代とおぼしき石炭ストーブ。
昭和といっても、たぶん、初期、戦争前くらいに流通していたものと思います。
でも、わたしたち北海道に暮らすものにとって
ストーブくらい、身近に思うものもない。
当たり前ですが、暖房は冷房とは違う。
そこに命の切実さがあって、
「快適性」というような範疇とはやや距離感がある。
冷房は、暑さから快適なクールダウンを求めるものであって、
そこには命の切実感はない。

暖房は、まさに人の命に関わる装備であって
基本的な「権利」とも似通った部分を感じさせる。
北海道に日本人が大量移住を始めてから140年ほど。
この間の1/3くらいの時間をわたしも生きてきているわけですが、
そのなかですら、暖房については多くの変遷があった。
もちろん、それ以前の石器・縄文・檫文・アイヌ期といった
「いろり」暖房の時代もあったのですが、
家屋が日本スタイルの平地式の木造家屋が主流になってから
ストーブと煙突の暖房形式が一般化した。
熱源は大量に採掘された石炭。
ニシンなどの採集型・略奪型経済が衰えを見せ始めると前後して、
同じような経済原理の石炭採掘が活発化する。
さかんに採掘された石炭は、ずいぶん低価格で流通していたような気がする。
産炭地であり、暖房が不可欠な地域として
価格も抑えられていたような記憶がある。
札幌でも、どの家にも「石炭小屋」という収蔵装置が併置され、
家屋内部に小分けされて運ばれて、
この写真のようなストーブに「くべられた」。

その石炭ストーブも、
石炭産業の衰退とともに、石油ストーブに変化して、
石炭小屋は、石油タンクに変貌していった。
開放型の石油ストーブから、FF式の石油ストーブへ進化し、
温風対流型が一世を風靡したかと思うと、
その空気汚染が問題とされて、だんだん輻射式暖房に移行する。
パネルヒーターを持ったセントラルヒーティングが普及してくる。
さらに建物の高性能化が進んで、
深夜電力を利用した電気蓄熱暖房が普及する。
こんにち、エネルギー価格の不安定さを反映して、
空気熱源式や地中熱などのヒートポンプ、燃料電池などの
新エネルギーによる暖房革新も近づいている。
そういう意味では暖房熱源は変化するのが当たり前で、
世代交代は至極、当然のようにおこなわれてきた。

暖房はこれからも形を変えていくと思いますね。
ひるがえって、車のエネルギー源は開発当初からずっと石油。
いま、世界の金融危機からはじまって、
車経済が大きな曲がり角を迎えているけれど、
やはり大胆に、エネルギーを乗り換えることで
革新させる方向に向かう必要があるのでしょうね。
暖房の歴史を簡単に見ても、必ず実現可能なことだと思えます。




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鶴岡八幡宮

2009年01月01日 09時10分27秒 | Weblog



あけましておめでとうございます。

ことしは、景気の動向がたいへん不安定な中での新年。
どのシンクタンクの予想も、日本経済マイナス成長という予測。
政府の発表がかろうじてゼロ成長予測と言うこと。
日本の「成長率」を引っ張ってきた大企業が
概ね、輸出型産業であり、
そういう産業が、軒並み大きく業績を下げていて、
世界最大のマーケットであるアメリカ市場が好転しないと
国内景気も底値を探る展開が続くのでしょうね。
いや、まことに厳しい状況だと思います。
ましてや、さしたる産業のない北海道を基盤とする企業は、
なかなか、展望が見いだしにくいなかにいると思います。
さて、どうやっていくか、知恵を出して、
元気を出して、立ち向かっていくしか術はないでしょう。

写真は、武家・源氏の「神聖幕府」、鶴岡八幡宮。
ほとんど時代が前後する平泉の伽藍群と、
中世的都市の成立の仕方が似通っているだろうと推測しています。
平泉は、昨年、世界遺産申請が却下されてしまいましたが、
鎌倉も世界遺産申請を検討しているのだとか。
仮に、鎌倉が認められると、平泉という奥州の首府は
繰り返し、関東に敗北を喫することになる気もします。
源平の争乱とは別の意味で、頼朝は
むしろ、正面の敵は平氏よりも平泉と考えていたのが正解なのでしょう。
平氏との戦いは朝廷・院政との政治的思惑の戦いだったけれど、
っていうか、同じ陣営内での勢力争い的なものだったのに対して、
平泉との戦いは、まさに天下分け目の戦いと考えていた節がある。
平泉を殲滅した大軍勢の動員は、
後の世の秀吉の北条攻めと比肩されるような、政治的大虐殺だったと思います。
ただし、そのように意識すればするほど、
都市計画とか、武権の作り方とか、朝廷との距離関係とか、
いかに頼朝が平泉を徹底的に研究し尽くしたに違いない、という
事実を浮かび上がらせてくれると思います。

さて、これから、わが家は
北海道神宮に初詣です(笑)。さて、いい運勢になるように
しっかりお祈りしてきたいと思います。ではでは。


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