三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【アメリカパッシブハウス基準セミナー取材へ】

2018年01月11日 05時28分27秒 | Weblog
さて年も改まっていろいろな活動が本格化してきています。
1月下旬,29日には日本建築学会環境小委員会「地球の声」メンバーが
たくさん北海道に見えられるようで、北海道の建築設計実務者のみなさんと
意見交換的なセミナーも実施される予定。
それに関連しての住宅視察についてのアテンド役を委託されております。
「環境」という建築テーマ、いろいろな展開を見せそうですね。

一方で、世界的に省エネルギーな建築についての志向は
どんどん強まってきているといえるでしょう。
ドイツパッシブハウスなどの「基準化」の動きは各国政府も
それを大きく取り込む動きを誘発してきている。
そういったなかで、世界的にはアメリカパッシブハウス教会(略称PHIUS)が
その急拡大ぶりで注目を集めています。
各国の気候風土条件を折込んだ、柔軟な基準ということで、
とくに蒸暑の夏を持つ気候条件が日本と近似するアメリカ東部ー中部ー南部で
顕著にその基準適合住宅が量産されてきているという。
こうした動きについては本ブログにて既報の通りですが、
そうした動きを伝える国際セミナーが本日開催されます。
PHIUSと連携する日本のPHIJPが主催するセミナーであります。
日本ではドイツ基準の紹介がされてきていますが、
いまのところ、それほど多くの適合住宅例は増えていないのが現実。
とくに寒冷地、北海道では適合させるには現実的コストでは
ほぼ難しいとされていて、ビルダーの間でも話題が聞かれなくなっています。
では北海道の最先端住宅は省エネではないかと言えばそうではない。
暖房効率は極限的に少なくなってきているし、
今現在でも大きく低コスト化、高性能化が同時進行している。
そういった現実の中で、多様な気候風土に対応した「基準」への興味が高まる。
ということで、本日このセミナーに参加して取材いたします。
参加メンバーの方はアメリカからもということですので敵いませんが(笑)
やはり北海道からと言うのも、距離的なバリアがあります。
しかし住宅関係の多くのみなさんにとっても注目は高いと思いますので、
しっかりと取材して、このブログでもその一端はご紹介したいと思います。

年明けからさまざまな住宅を巡っての「交流」が活発です。
こういうことは業界の活性化にそのまま繋がっていくと思いますので、
住宅のメディアとして、情報の面でお役に立てるように
あちこちと駆け回っていきたいと思います。
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【コンクリートブロック外断熱は北海道PRIDE】

2018年01月10日 05時42分33秒 | Weblog
きのうはわが社の再起動、始動日。
仙台のスタッフも集合しての全社会議などが連続。
で、ことし移転予定の新社屋をスタッフに披露しておりました。
もともと現在でも登記上の「本社」ではあるのですが、
ながく「遊休資産」化してきた建築であります。
総床面積は86坪ほどあり、事務所として再活用する面積も、
約63坪ほどの広さを確保することができます。
スタッフ15-16人には収まりの良い事務所として利用が可能。
はじめて見るスタッフがほとんどだったので、
建築の説明などをしておりました。

なんといってもこの建物は、地域としての北海道が独自に開発してきた
「コンクリートブロック外断熱」という工法を採用しています。
コンクリートブロックは北海道特有の火山灰土を成型して得られる
地域風土に根ざした建築材料です。
その「かすり」にも似た風合いは、ハードでありながら質朴で、
素材としては内部に空気を保持している。
空気中の湿度も保湿し、同時に蓄熱性も持っている。
室内空気との温湿度のマイルドな「応答」がなされるのですね。
この素材で建築駆体を構成すれば容易に「気密化」施工ができる。
その外側で断熱層を設ければ理想的な「外断熱」構造が出来上がる。
室内側での暖房熱の保温性に優れた空間を構成することが容易。
構造としてはコンクリートブロック内部の中空部分に鉄筋を通すことで
コンクリート建築並みの長期的強靱姓を担保しうる。
同時代に展開していた安藤忠雄・無断熱コンクリート住宅の
過酷な室内環境に対してはるかな環境性能的優位性がある。
また、意匠的にもたいへん愛着を持てる建築だと思う。
当社建築でも築27年目ですが、経年劣化はほとんど見られない。
開口部には、当時の最先端木製3重ガラス入りサッシを入れた。
スウェーデンからコンテナで直輸入して使った窓は、
いまでもほとんど劣化は見られない。
建築当時に考えていた通りの長期的耐久性を見せてくれている。
適切なメンテナンスをして行けば、百年寿命もクリアすると思われる。
外断熱のその外側外皮は、当時の最新素材、ガルバリウム鋼板角波と
1/3程度の外壁には本煉瓦1丁積みを施工した。
これは煉瓦を正しく水平垂直に単純に積み上げていく仕様で、
施工技量がもっとも端的に表現される技法だった。
ブロック積みとも合わせて施工いただいた畠山レンガさんには
すばらしい仕事をしていただいたと今でも感謝している。社長さんが
ブロックとレンガの積み上げぶりを確認していた姿が忘れられない。
このような建築なのでなんとか「活かして存続させていきたい」と考えた。
北海道内で建てられたコンクリートブロック外断熱の建物は、
その後の在来工法木造技術の発展もあり、施工の難度もあって
徐々に建築棟数が少なくなっているし、代替わりもあって、
取り壊される事例も増えてきているのが現状なのですね。
この貴重な「北海道遺産」とも思える建築工法を遺していくことは
わたしたち年代の役割でもあるのではと思っている次第です。
きのうはそんな思いをスタッフに話すことができて楽しかった。

あ、写真の手前の「蓄熱暖房」は東大・前真之准教授から
繰り返し「口撃」を受けている(笑)ものであります。
こうした設備についてはそういった指摘を踏まえて柔軟に対応し、
今回の改造で撤去したいと考えています。
ただ、これもこれで「北海道遺産」でもあろうと思いますので、
どのように「再生活用」が可能か、考えているところであります。
前先生からもぜひ、お知恵をお借りしたいと考えています(笑)。
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【原初的人類記憶 水上住宅と移動の自由】

2018年01月09日 06時08分42秒 | Weblog
さて本日から仕事も再起動であります。
年明け早々からきのうまでは、今後事務所として活用する遊休資産、
眠っていた86坪の面積の建物を改装に向けて準備作業。
やってみるとそのまま「断捨離」の気分が盛り上がってきて、
娘の指揮の下、たのしく片付け作業に没頭していました。
会社スタッフにも新しいオフィスとして、想像力を持ってもらうために
本日以降、公開していきます。
やってみて、やはりわたしはこの建物に深く愛着を持っていると実感。
結局人間は、居を点々と変えるよりも暮らし方の想像力について
だんだんと深めていくというか、本然を求めていくものではないかと、
そんなふうに思わされてきています。
わたしの場合は、ブロックの建物というものに縁を感じています。
それは親が札幌に移転してきた60数年前にはじめて家に手を加えて
増築した建物が当時最先端であった「ブロックの家」だったこと。
はるかな後年、1991年にわが家兼用住宅を建てて
なにか挨拶をしなければならなくなったときに、
そういえば、とその親の建てたブロックの家の記憶が鮮明に蘇った。
結局、親と同じような縁に導かれているようで、おかしかった。

そんな建物と人間の関係を想起していて、
片付けの最中にたくさんの旅の写真が出てきて、
バンクーバーによく旅していた頃の写真に再度、見入っていました。
いろいろな住宅を見学したけれど、いちばんこころに残ったのが
写真のような海辺、波止場に建てられた住宅群。
行動の自由を象徴するような船が各戸にあり、
まるで定住しながら移動の自由を主張しているかのようだった。
その光景になにか、原初を感じさせられる思いがしていた。
いま知人のアイヌ文化、考古学の碩学・瀬川拓郎さんの最新作を読書中。
「縄文の思想」という本ですが、昨年耽溺していた「サピエンス全史」からの
流れで、人類の全大陸への拡散経過について深く興味を抱いてきて、
水運と人類というようなイメージが強くなってきています。
瀬川さんは縄文は定住的ではあったけれど、同時に海民にその文化が
色濃く残滓として残っていると解析されていた。
人類は海から、その延長としての河川へというのが、
農耕以前の普遍的行動様式であったことを書き綴られている。
人類はアフリカを出て東西に分かれて以降、ずっと陸上よりも
海沿いの移動が中心だったのではないか。
そうすれば陸上で出会う大型肉食獣からの退避が容易だったという仮説。
そしておよそ2万年前くらいにこの列島にたどりついたときも
海上ルートがメインルートだったと自然に考えられる。
西に分かれた西洋人たちも基本的には似たルートをたどったに違いない。
そんな人類的記憶が、海辺に住みたいという自然な欲求を生む。
移動の自由というのは、原初的な人類のパトスなのではないか。
バンクーバーで、こんな光景を見て強い印象を持っていた。
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【食事カロリー管理アプリ導入!】

2018年01月08日 06時23分56秒 | Weblog
年明けから娘がわが家の「断捨離」手伝いに来てくれています。
今年はわが家建物の再活用計画が進行中なので、
その準備の整理整頓のために、娘の力が絶大なのであります。
なんといってもわが家を知り尽くしているし、
父親にも母親にも最強の権力を持っている(笑)。
身の回り的なことではなにを言われても父親というのは、娘には無条件に従う。
カミさん以上に、あるいは母親と同等くらいな強さがある。
こういう存在は、まことに得がたくありがたいものと深く認識。

そんな娘はデジタルネイティブでもあるので、
わたしなど、市場調査的に彼女世代の常識を教えてもらったりもします。
で、最近教えてもらったひと言、
「父さんなぁ、最近ダイエットが待ったなしに必要なんだけど、
食事の記録管理、それもカロリー管理のできる方法を探している」
「そういうiPhoneアプリ、あるよ」
「え、ホント?こないだから探していたけど、あるのか?」
みたいな会話でありました。
実は12月中旬から食事を写真に保存するアプリは使っていたのですが、
それではカロリー計算まではできなかったのであります。
ということで、あれこれ探していたら、数種類のよさげなアプリを発見。
さっそく試してみて、写真の「FoodLog」というヤツを使っております。
これは食べるものを写真で撮影して保存し、
そのなかで、自分で食品や食材を部分選択して、
さらにその目分量も仕分けしてカロリー計算結果を保存してくれる。
そういった操作が、たいへん直感的に可能になっているのです。
以前、10数年前にわたし自身、そういうアプリができないかなと
友人に相談したりしていたことがあった生活管理機能アプリであります。
まだ使い始めて数日なので、使い方は習熟していませんが、
とりあえず直感的に使えて、過不足なく用は足りている。
なによりも、カロリー計算が一種の楽しみになるので、
目に見えて自分の健康を管理している実感を持てるのが素晴らしい。
食事って、外食もあるのでほとんど「一期一会」に近い。
たいへん「変化に富んでいる」ので、その分、面白さがあるのですね。
「えっと、この食材はと、おお、あった。で,分量はこれだけと。
ほ〜、これくらいのカロリーなんだ、じゃ、きょうはこれを食べても大丈夫」
みたいに科学的分析感での満足感が得られる。それは食事での満足感と
相互作用にもなるので、快感が倍増するかのようなのです(笑)。
医者からあれこれ言われても、食事の自己管理はたいへん難しい。
そういう意味で、わたしには満足度が高い情報ツールであります。

なんですが、この「食品の分量選択」について娘からキツい一発。
「お父さん、1人前のところ都合の良いように1/2人前とかしていない?」
「え、そんなことはないよ、ゴホン」
「お父さんはね、だいたい1人前っていうのが平均より多いんだからね」
う〜む、やさしいばかりではないところなど、母親以上の難敵でもあります(笑)。
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【太陽神崇拝としての日本神道信仰痕跡?】

2018年01月07日 07時56分35秒 | Weblog


2年連続で訪れた淡路の地。たいへん気候が温暖で
なんといっても、海を架橋でわたる体感が気分よくわが家的お気に入り。
今回は元気の良い初老夫婦の二人旅でしたので、
行きたいなと思う場所をごく自然にたどってみると
結果としては神社仏閣の類に歴史の痕跡をたどるような行程でした。
そういうなかでも、この淡路の「伊弉諾神宮」にはやはり惹かれる。
北海道にはこういう類の史的痕跡はなかなかない。
そういう一種のエキゾチズムを感じさせられる。
「イザナギって、どう考えても神話、つくり話だろう」という近代日本常識、
いわば、そういう思想体系で北海道はいるように思う。
で、その神宮の庭で写真のような石版を見入る。
この伊弉諾神宮を起点にしての日本神道の主要「配置図」だという。
それによると、太陽の季節毎の移動軸線上にあるのだとされている。
いわく、この神宮の同緯度には、伊勢神宮内宮と対馬国一の宮海神神社があり、
古代の飛鳥藤原京があったとされる。
また、夏至の日の出、日の入りの方角にはそれぞれ、
信濃国一の宮・諏訪大社、出雲大社があるとされている。
さらに冬至の日の出、日の入りの方角にはそれぞれ、
熊野那智大社、そして高千穂・天岩戸神社が配置されているとしていた。
たしかに日本神道は、抜けがたく太陽信仰ではないかとは思うけれど、
さてこの「配置図」はそのまま受容して良いのかどうか?

ちょうどマチュピチュの古代文明の検証番組を
正月のBS-NHKが放送していて、古代には農業の「施政方針」として、
太陽の運行を精密に把握することが権力には不可欠だった、
そういう趣旨の番組を視聴していた。
天文「科学」知識と権力機構が深く密接に結びついていただろうことは応諾できる。
人類の文化発展で、農業の科学的管理はそのエンジンではあっただろう。
とくにマチュピチュでの農業は高地でのトウモロコシ栽培であり、
ほかの普遍的作物、コメや小麦以上に繊細な気候予測が必要だった可能性は高い。
一方、ニッポンでは皇祖神・アマテラスは読んで字のごとく天照。
日本では基本的な人間集団組織形成の初源は弥生以降、
コメ生産に特化した「ムラ社会」が基本であっただろうことは疑いがない。
それ以前の縄文や海民による狩猟採集経済とは違う「科学的」根拠を持っていた。
その科学とはすなわち、天文知識による季節把握だったことも蓋然性がある。
そのように考えれば、この「神社配置図」にも、一定の周縁的根拠はある。
しかし、遠距離での配置がどうやったら可能かなど、
しっかりとした「解読作業」は不可欠ではないかと思わされた。
さらにいまの神道に太陽の季節運行についての「科学性」残滓はあるか、など
そういう裏付けがないといわば、牽強付会・ネタの域は出ない。
そもそも伊弉諾神宮は朝廷から、『日本三代実録』貞観元年(859年)1月27日条で
「伊佐奈岐命」の神階が無品勲八等から一品勲八等に昇叙されている。
逆に言えばそれ以前には、鄙の「島神」とされていた事実がある。
ただブログの「正月特集」ネタとしては、許されるかなぁと思った次第(笑)。
可能性のあるユニークな説とは思われますね。どうなのかなぁ?
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【街並み熟成には古い建物の再生活用】

2018年01月06日 08時55分19秒 | Weblog
京都でふと道を尋ねたときに、
「もうちょっとこの道を下がったら、昔ながらの八百屋があるから・・・」
というように案内された建物に遭遇した。
この「昔ながら」ぶりは、まことにそのものズバリで、
特段の変哲はないけれど、いわば普遍的なイメージ通りで存在感がある。
いまもこの地域の暮らしに欠かせない存在のようで活気もある。
同時に、角地としてランドマーク的な愛情も持たれていることがわかる。
気取らずにごく自然に店内に吸い込まれてみれば、
なんとなく食材選択を通して、どんな食卓を地域の人が囲んでいるかの
想像力も匂い立ってくる。
そういう「建築の力」というものは計量してみればすごいと気付く。




わたしはよく住宅施策についての意見を求められることがあります。
北海道からのケースが多いのですが、
その都度、よく「街並み」ということが論議されます。
もちろんいろんな立場や考え方はあろうかと思うのですが、
どうしても行政的立場では、実践的主体者の視点が見えないといつも感じます。
「よい街並み」ということについては、特段の異論はなく、
またそれぞれ「個性的」に街区が形成されて、
それが地域の人にとって愛着を生み、地域自体の価値が高まるのであれば、
カタチについてはそれぞれ個別的に考えれば良いのだと思っています。
ことしは明治維新から150年の節目だそうで、
明治とともに近代史が始まった北海道の「都市」も、
熟成を考えていかなければならない時期に差し掛かってきている。
写真は京都でふと目に付いた「町家再生型」の住宅再活用事例。
街歩きしていると、上の八百屋さんのように名もない建物でも、
その街の空気感に対して大きな役目を果たしていることがわかる。
街並みを論議するときには、こういう生活者目線が最重要ではないか。
とくに古くから存在する建物は、安易に全交換すべきではない。
「あ、あの家、こんどケーキ屋さんに替わったんだ」
みたいな、いわば外観からのコミュニケーションが街には必要ではないか。
変化し続けることは、時代を生き抜くために絶対にされなければならない。
でも、地域がロングスパンで愛着を持って存続するためには、
こういった個別建物への価値認識、眼を豊かに情操教育しなければならない。
天才的建築家の仕事と言うよりも、コモンセンスを磨く、高める、
というような部類の努力が必要なのではと思い続けている。
ことし当社でもそういうことに実践者として取り組んでみたいと考えています。
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【全国物流管理が生んだ近江商人の景色】

2018年01月05日 08時46分44秒 | Weblog


今回の年末旅行で風景的にいちばん惹かれたのは
近江八幡の琵琶湖湖岸から北方をみた写真上の光景。
このように見る風景を「湖北の山並み」というのかと思ったのですが、
湖北というのはもっと東側で北国越前に近くなる長浜などの周辺、
あるいは伊吹山もそう呼ばれるということだそうで、
そうすると、この景色は大津市北部の琵琶湖畔の山並みでしょうか。
大津という街は、県庁所在地でありながら、
他県の県庁所在地都市・京都と隣接し、それも10kmほどという
日本ではいちばん近いツイン都市なんだそうで、
歴史的に京都ときわめて近接した成り立ちだと言われます。
この写真の山並みは、京都の北部にも連なっていて、
北方の山並みが人口密集都市を守っている様子が明瞭。
北側のことを「玄武」というように方位学では言うようですが、
ながく日本の都であった京都は風水合理的だといえる。
風景の極限表現として水平線と山並みというコントラストは印象的。
短い滞在ではあまり聞くことが出来なかったのですが、
こういった情景を謳った歌などはないのでしょうか?
日本最大の琵琶湖らしい光景だなぁとシャッターを押しまくっていました。

琵琶湖は歴史的に日本の物流の大動脈であり、
ながくその主役・日本海交易と京都都市圏への流通を担ってきた。
そういう地理的な位置が「近江商人」を生んだとされる。
北陸地方は北前船交易の残滓が各地で見られますが、
その資本家は近江商人たちが関わっている場合が多い。
物の値に日本社会でもっとも影響力を持ち続けていた存在でしょう。
物流という現物の推移をウォッチし続けることで、
自然とその感覚が錬磨されていったのだろうと思います。
そんな近江商人たちの築いた街が近江八幡。
琵琶湖からの水運を街に引き込んで、ここから京都方面に出荷され、
また各地へ京都の先端商品、呉服ファッションなどが出荷された。
戦国期にこの地域で織田軍と浅井・朝倉連合が覇を争い、
秀吉や光秀が領地を与えられ、さらに信長が安土城を築いたのは
こういった近江の決定的な地理的経済的要素が大きかったのでしょう。
秀吉が大阪に天下の物流機能を移していったのは、
日本経済史上、たぶん相当大きな革命だったのでしょうが、
その経済機構運営を握っていたのは、五奉行の石田三成らの近江人脈。
三成は秀吉による征伐で疲弊した薩摩藩の経済復興に入れ知恵して、
大阪市場に商品を送って商いをすることを事細かに教授したと言われる。
さらに複雑な理数計算の必要な朝鮮出兵の兵站をも完全に仕切っていた。
日本で全国規模の物流を管理させたら、この近江のひとびとの素質には
敵わない部分がきっとあったのだろうと推測されますね。
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【日本史の主要舞台 伊吹山逍遙】

2018年01月04日 07時16分59秒 | Weblog
歴史好きにはたまらない山が伊吹山だと思います。
琵琶湖畔南側を東進すると、ずっと正面に見え続ける山が伊吹山。
平野部がその周辺から中部山岳地帯になっていく位置。
逆に東国方面から来れば、もう少しで畿内という最後のランドマーク。
それはまた、北国地方からの地上交通でも同様になっている。
畿内と東国・北国の接点の位置としてきわめて重要な立地を占めている。
いわば、東西日本を分かつ接点に位置しているのだと思うのです。
そういった古来の交通要衝地ということで、
日本史最初の「東西決戦」となった、壬申の乱の激突地にもなったし、
その裾野に含まれる「関ヶ原」も、戦国の東西決戦の舞台になった。
今回、レンタカーで琵琶湖南岸の平野部を東進してみて、
一般道からはずっとこの伊吹山が見え続けることを確認した。
わかりやすい雪をかぶった山体を遠目にも見せてくれていた。
古くは日本武尊がこの山の神と戦い傷ついてそれが原因で死に至ったとされた。
そして壬申の乱による故事からなのか、
この伊吹山で特異に掘り出される「さざれ石」が全国の神社には奉納される。
さざれ石は、小さな小石が再度溶岩で集結した石なので、
八百万の開拓ムラをそれぞれ「クニ」と考えたとき、それらを統合する
「日本」という中央集権国家をイメージさせるのにピッタリだったと思える。
壬申の乱で東国武力を統合して勝者となった天武によって、
その後、験のあった伊勢が聖域化され、さざれ石のようなギミックも
「君が代」のひとつの象徴にしていったのではないか。
天智の弟でありその子が正統と自ら認識しながら、政権を武力で奪取した
天武帝にとっては、数々の王統神話を造作する必要があった。
わたしはそのようなイメージを持ち続けています。

今回はじめて「関ヶ原」も見てきたのですが、
行ってみて、その場所が明白に伊吹山の山麓地域であることを確認しました。
この山麓台地に陣を構えた石田三成が、圧倒的に「地の利」を得ていたことは確実。
それに対して家康は、低地から高地に攻め上がるかたちになっている。
明治になって政府が招いた欧米の軍事戦略家たちが、関ヶ原のこの陣構えを見て
異口同音に「西軍勝利」を語ったとされている。
そうであるのに、家康はどんどんと自陣を前に前にと進めている。
司馬遼太郎さんもこの地を訪れたことを書かれていたけれど、
この陣構えを確認して、ことが軍事常識によって決したのではないことを
深く確認したに違いないと思われました。
歴史好きにはたまらない空間体験を持つことができた。
なかばあきれながら付き合ってくれたカミさんに深く感謝であります(笑)。
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【運慶さん最高傑作 東大寺金剛力士像】

2018年01月03日 07時07分48秒 | Weblog


カミさんからも「大仏が見たい」リクエストがあって
今回も参観してきた奈良・東大寺であります。
世の流れにつれたびたび訪れますが、今回印象はやはり中国です(笑)。
まぁまぁ、すごい。伊勢神宮ではまったく聞かれなかった中国語が
ここでは、ほぼ満艦飾のようであります。
たまに日本語や英語を聞くという程度で、圧倒的多数派。
日本人は大仏の前で大声を出すような習慣がないせいもあるのか。
いや、欧米系もそう大声を出す習慣はないと思う。
それに対して、中国の人はやたら騒がしいという印象がある。
コモンセンスについての認識の根源で違う部分があるのか?
家族とか一族というような意識が過剰で、
それを超える社会性に対しての認識に違いがあるのかも。
まぁそれでも、せっかく来ていただいているのですから、
観光立国ニッポンの戦略としてはありがたいと思います。
ただ、京都などではそろそろ総量規制的な動きもあるといわれる。
なかなかむずかしい問題になってきているのかも知れませんね。
中国歴史では仏教は大きく発展したけれど、
かの国はそれ以上に専制独裁権力国家であり続けてきたので、
宗教弾圧が繰り返されても来た。結果、
仏教施設の破壊が定期的にもたらされてきている。
近くは中国共産党・文化大革命によって仏教は殲滅的被害を受けた。
そういうかれらにとって、千年以上、多少の災禍はあっても
文化が基本的に大切に継承されてきた日本仏教は興味深いのでしょう。

そのなかでも日本国家が成立して世界に大きなメッセージとして発信した
この国家巨大公共事業の嚆矢といえるのが、奈良大仏でしょう。
いまみても、そのスケール感には圧倒される。
この大仏殿がもっとも危殆に瀕したのが、平家による南都焼き討ち。
そこからの再生のために鎌倉時代に建立されたのが、
この阿吽の金剛力士像2体であります。
昨年東京国立博物館で展示開催された「運慶」展を見学したあとなので、
たいへん興味も増した「再見」でありました。
それとこの2体はまごうことなき「国宝」なのですが、
国宝の中でいちばん身近に親しむことができているものでもあると思います。
奈良再興の総合プロデューサー・重源さんの構想の中でも
この大仏殿を守護する役割の金剛力士像は、相当重視されたに違いない。
なんといっても、災難から仏を守る使命を込めた力士なのです。
依頼を受けた運慶さんになるこの力士像の力感、迫力は格別。
もう二度と戦乱で大仏を危難にさらしてなるものかという、
まさに民族的な強い意志をそこに感じる。
運慶さん的なリアリズムがその意思の表現に、まさにハマっている。
平和を達成するための力強い「防衛力」。
なにやら現代ニッポンにとっても、きわめて暗示的ですね。
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【飛鳥寺から東大寺 ヤマトから日本へ】

2018年01月02日 07時24分22秒 | Weblog


今回の旅の訪問先で面白かったのが、
石舞台見学から足を伸ばした飛鳥寺、飛鳥坐神社でした。
きょうは、こちらの「飛鳥寺」のことを探究してみます。
写真は飛鳥寺の現「本堂」と下の写真は東大寺大仏殿外観。
飛鳥寺の建築としての成り立ちとか、プロセスについてスタディ。
「古寺巡訪」という個人の方のブログを参照しました。

草創・開基
(1)建てたのは蘇我馬子。
用明2年5月、蘇我馬子は政敵・物部守屋を倒した。この戦いの結果、
蘇我馬子はほぼ全権力を手中に収める。それを確固たるものにするために
この飛鳥寺造立を行った。完成には約21年を要した。
・崇峻元年(588年)造営開始、
・推古4年(596年)一応の完成。馬子は息子膳徳を寺司にし僧を居住させる。
(2)飛鳥寺は我が国最初の仏教寺院
飛鳥寺は当時の朝鮮半島の先端技術によって建立された
本格的な伽藍をもった我が国最初の仏教寺院。
●建築技術は古代朝鮮半島の先端技術が導入された
飛鳥寺は蘇我氏と結びつきが強かった渡来人・朝鮮の百済国などから
6人の僧、寺大工、露盤博士、瓦博士、画工などの派遣を受けたと
日本書紀にあり彼らの指導の下に建立されたと考えられている。
仁和3年(887)と建久7年(1196)の火災によって伽藍が焼失し、
室町時代以降は廃寺同然となった。
江戸時代の寛永9年(1632)と文政9年(1826)に、旧金堂の跡に
小寺院が再建され「安居院」と称した。この小寺院が現在に至っている。

・・・というような沿革になっている。
日本最古の建築会社・金剛組は聖徳太子の「四天王寺」建設工事に
際して朝鮮半島から日本に移住してきたとされるので、
ほぼ同時代に建てられた最先端木造建築デザイン・技術とされる。
<578年、四天王寺(現在の大阪府)建立のため聖徳太子によって
百済より招かれた3人の宮大工(金剛、早水、永路)のうちの1人である
金剛重光により創業。江戸時代に至るまで四天王寺お抱えの宮大工となる。
〜Wikipedia 金剛組のページより>
その創建時のデザインが残滓として、いま残っている建築に
活かされているのかどうか、定かではない。
いま残っている寺院建築はまことにこぢんまりとしたたたずまい。
奈良の遷都に際して、寺院としてはそちらに移転して行って
こちらはその抜け殻のような位置付けのようなので、ムリもありません。
しかし、有名な止利仏師作になる「飛鳥大仏」が安置されている。
こういった飛鳥寺創建当時の状況から推移していって、
奈良・東大寺が「大仏開眼会」を行ったのが、天平勝宝4年(752年)。
この間、150-60年の歴史経過があるけれど、
この飛鳥の地を訪れてみると、ヤマト王権としての段階から、
「日本」国号を定めて、アジア世界で独自の「中華」国家をめざした
そういった空気感が、なんとなく感覚される。
行ってみて、ほんとうに小さな地域にこぢんまりと端座しているので、
この間の「国家創始」の動きの急拡大ぶりに驚かされます。
古代においても日本は経済成長国家だったという説がありますが、
そんな印象が強く感じられました。
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