つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

献花・献歌、津幡より天へ。

2010年12月15日 01時09分00秒 | 追悼。
現在、前回の投稿の際と同じシチュエーション。
深夜である。
やはり安酒をたしなみつつキーボードを叩いているところだ。

…さて、きのうはある女性の誕生日だった。
もし彼女が生きていれば33歳になる。
だが「今日の一枚」…大輪の百合のような笑顔は、
もう二度と目にする事はできない。

彼女は、若くしてガンに侵された。
体の変調を自覚した時は、すでに手遅れだった。
若い身空で命を散らした。

周囲に愛され、音楽を愛した彼女が好きだった歌詞を記し、
天国の彼女へ献じたい。

『お前はライオンの子、そのタテガミなびかせて
 大海原を駆け抜けろ。
 お前はライオンの子、時に牙むき出して
 自分の正義を知らしめろ。
 海の涙があふれ、大地を満たす前に、
 やみくもな不条理に大きな目を光らせ吠えるんだ!
 
 立ち上がったライオン
 噛み付けバビロン
 探し出せザイオン
 辿り着くから。』

(スピナビル&ザ・ケイブマンズ-「ライオンの子」)
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今よりも津幡がオープンだった頃の話。

2010年12月14日 01時16分18秒 | 日記
現在、深夜。
安酒を飲みながら束の間の休息に浸っているところだ。
やや酔いの回った頭を抱え、散歩中に写した画像を見ていたら、
「今日の一枚」が目に留まり、キーボードを叩き始める。

…写っているのは、何て事のない住宅街。
かつてこの一角には小さな酒屋があった。

幼い僕は、生家から歩いて1分とかからないこの辺りへ、
父の使いで日本酒を買いに出かけたものである。
求めた銘柄は「兼六」。
茶色い一升瓶を抱えて歩いた自分を妙に覚えている。

その酒屋の店内には立ち飲みのカウンターがあって、
赤ら顔の大人達が集っていた。
子供が足を運ぶくらいだから
それほど夜の更けていない時間帯だったと思うが、
裸電球の下では、既に酒宴の真っ最中。

アルコール臭。
肴のサバ缶や牛肉の大和煮、竹輪などの匂い。
のしイカの甘い香り。
店内は、人いきれと雑多な喧噪が混ざり合っていた。

記憶の中の店のオヤジさんは、常に爪楊枝を咥え、
座を取り仕切る陽気な人である。
僕が酒を買いに行くと、空の一升瓶と引き換えに、
新しい「兼六」を渡してくれ、笑顔で頭を撫でてくれた。

思えば、当時のご近所は随分とオープンだった。
酒屋の入口をはじめ、家々の扉はお粗末なカギしかない引き戸。
それも鍵をかける事など、滅多にない。
台風が来たときくらいである。
帰宅するなり厳重にロックする今とは大違い。
つまり、心もオープンだったのだ。
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越中と境を接する加賀の国・津幡。

2010年12月12日 11時13分49秒 | 日記
おととい、金沢で富山の人と会った。
その人は、朴訥で、しかし内に秘めたる情熱の持ち主。
僕個人が抱く「越中人」のイメージの典型である。
そんな印象を受けるのは、子供の頃に接した「売薬さん」の影響かもしれない。

定期的に家を訪れていた「売薬さん」。
母親の手が離せない時は、僕が玄関先まで薬箱を持って行った。
箱の中身をチェックし不足分を補充すると「売薬さん」は明細を手渡してくれる。
それを元に料金を支払うのだ。
彼の顔は覚えていないが、真面目な仕事ぶりは記憶に残っている。
暑い夏も寒い冬も、一軒一軒、各家庭の常備薬カルテを手に巡回するのは
子供心に大変なことだろうと察していた。
そして、帰り際に紙風船やお菓子をくれて、笑顔で去って行った。

富山の県民性として、一般的に言われるのは、勤勉実直・まじめ・粘り強い。
…こんなエピソードを聞いた事がある。

金沢の卸で営業をしている男性、富山出身のA君。
取引先の小売店が新規オープンするため、開店準備の応援にかり出された。
現地には、メーカーや他の卸から助っ人が来ていたが、夜も更けてくると、
理由をつけて帰り始め人数が少なくなり、彼を含めた5人が残された。
何かの拍子に、誰かが「僕は富山の出なんですよ」と口にしたところ、
残った全員が富山出身者だと判明したのだそうだ。
…なるほど。

江戸時代、富山は加賀・前田藩の支配下にあったためか
とかく、金沢の人は富山に対して反目する事が多い気がする。
だが「今日の一枚」…津幡町の倶利伽羅付近で撮影した標識が示す通り、
津幡は境を接するお隣さん。
津幡人の僕は富山に親近感を持っている。
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バスストップ、津幡町内。

2010年12月11日 23時23分37秒 | 日記
「今日の一枚」は、近所のバス操車場。
奥には北陸鉄道の路線バス、
手前には、通学途中の中学生が写っている。

かつて本津幡のバス停は、この撮影場所にあったが、
現在、150メートルほど離れたJR本津幡駅前へと移動。
バス停が立っていた頃の操車場の様子は、写真とは違う。

地面は未舗装。
車両を転換するスペースの最奥には扉のないバスの車庫。
他に人工物はなく、隅に大きな柳の木が一本。

確か、幼い僕は母に手を引かれ、そこで度々バスを待っていたはずだ。
記憶の中の風景は、画像に写る実際のスケールよりも断然広く、空もうんと高い。
やはり子供の目線で眺めていたためだろう。
…などと、シャッターを切った直後に思いを馳せていたら、
バスは大きな車体を揺らしながら180度転換。
手前の自転車の進行方向とは逆へ去って行った。
これから一旦、始発のJR本津幡駅前へと向った後、
旧道を抜けて、終点のJR金沢駅を目指して走る。

途中、幾つか津幡町内のバス停を通るが、その一つがこれだ。

「横浜」である。 また、これもそうだ。


今度は「潟端」である。

横浜の横に浜はなく、潟端の傍に潟はない。
水辺に縁のない場所なのに、こうした地名が付いているのは、
おそらく「河北潟」が干拓される以前の名残りだと思う。
昔、河北潟は、今の3倍は大きく真水と海水が入り混ざった汽水湖だった。
バス停周辺には、1950年代まで田園と水郷が広がっていたという。
その頃の道は、アスファルトではなく水路。
バスではなく手漕ぎの舟が、人と物を運ぶ手段だった。
…そんな往時の津幡町を、この目で見てみたいものである。
コメント (2)
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津幡の空に出現した?別世界。

2010年12月10日 23時42分50秒 | 日記
散歩をしていて思うのだが、
「目に映る風景」が「現実」と違って見える時がある。
言い方を変えるなら“現実とは違って感じることができる”。

そもそも角膜-瞳孔-水晶体を通じて眼球に入ってきた光学的な映像は、
網膜を通じて視神経によって脳へ運ばれ、情報処理をされ認識される。
世界とは、脳が司った結果だ。
だから、必ずしも現実と風景は一致しない。
恐怖や歓喜、悲哀に憤怒などの感情は言うに及ばず、
判断の中に想像や妄想が介入すれば、
目に映る景色は容易に捻じ曲げられてしまうものだ。

「今日の一枚」…ある陸橋から街灯を見上げた風景もその1つ。
僕はこれを“釣りみたいだ”と感じた。

空は水面。
雲は波紋。
カーブを描く街灯は、釣り竿と釣り糸。
一瞬そんな風に思い込んでしまったのだ。

勿論それは想像の産物に過ぎない。
理屈で解ってはいても、抗えない空想がある。
その想いに浸るのもまた散歩の楽しみなのだ。
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