イタリアの風に吹かれて ~con te partiro~

前世(かこ)から未来(いま)へと紡がれし時の記憶
あなたと交わした約束の欠片を辿る遥かなる愛しき旅

新大使

2013年11月20日 09時41分47秒 | 日常のあれこれ

    19日、皇居で天皇陛下への「信任状捧呈式」を終え、
 正式に大使となったキャロライン・ケネディ駐日米大使を一目見ようと
 沿道に集まった多くの人の様子が 今朝各局で流れています。

         騎馬隊の誘導のすぐあとに続くのは
  軽やかな ひづめの音を響かせた 華麗な馬車(偽装4号)、
   その中から控えめな笑みで 手を振る新大使のご様子は、
   昨日の丸の内の青空のように美しく爽やかに見えました。


      今から8~9年前、丸の内でランチした直後、
      たまたま私も今回と同じ場面に遭遇しました。

 本格的なカメラを持った方々や報道関係と思われる方々が
 駅周辺に気ぜわしく集まりその時を待っている様子でした。
 (その当時の発着場所は東京駅だったと記憶しています)
    何かあるのかしら?と思い 周囲にいらした方に
     「今日は何かあるんですか?」とお尋ねすると、
       「偉い人(要人)が来るらしい」ということ。
   だったらと、一緒に食事した方と待つことに・・・すると
   数分もしないうちに馬の匂いが漂ってきました・・・ 
   ランチした方に「馬の匂いがする!」と興奮気味に言うと
    ここは東京、「まさか」と一笑されてしまいましたが、
  柔らかな風が通り抜ける度 届けられる独特の匂いに
  「ほら、ほら 馬の匂いするでしょう?」と言っていました。
  その約20分後、道の向こうから 太陽の光を背に受け
  美しく光った小さな馬、騎馬隊のシュルエットが・・・・・・
    微かだった 
ひづめの音も 馬も次第に大きくなり
    見事な列をなし こちらへと向かってきたのです。
            その感動たるや・・・・。

 20代の頃、会社の余暇室の行事、乗馬教室に参加して以来、
     大好きな山梨を折に触れて訪れ、乗馬する中で
(牧場からでで場外での散歩は格別でした)馬、馬小屋の匂いを
知っているからなのか、五感が研ぎ澄まされていると言われる
     おし座だからなのか? 野生児だからなのか?
  昔から確かに 五感にはちょっぴり自信があるのですが、
 強い風が吹いていたわけでもなく周囲の方やランチした方には
      全く匂いは感じられなかったということですが、
    私は見事に 馬の匂いを嗅ぎ分けていました(笑)

昨日、キャロラインさんを一目見ようと沿道に集まった多くの方の様な
 賑わいこそみられませんでしたが、騎馬隊、馬は皆気品があり
    輝き、本当に素晴らしい光景でした。駅には
黒塗りの
    クラシカルで素敵なフォルムの自動車も待機していました。

 今朝の映像を拝見しながら、当時 たまたまお目にかかれた
          あの日のことを思い出しました。
       賢くて、優しくて 美くしい馬が大好きです


愛について考え愛を実践する日々の中で

2013年11月20日 02時13分38秒 | ハート♡の作品

 

007

この世に産まれた時それぞれがそれぞれの環境の中で
  人と一様ではない 自分だけのストーリーを展開し
   そのなかで 様々な喜怒哀楽を体験してゆく。

最初に出逢った親との関係が 安心という名のもとに 
スムーズに育まれる時、
魂は委縮する事なくイキイキと光り
周りからの あの手この手の圧力に必要以上に動じたり、
ペチャンコになることもなく、まるで起き上がり小法師が如く
   淡々と何度も立ち上がり常に本来の自分へと
         回帰しようとするだろう。

  難なく越えてゆけること、というのは、もしかしたら、
   過去世と呼ばれる人生で 既に越えたからこそ
        (私は過去世を信じています)
     すんなり越えられるような気がすると共に、
   卒業に値するほど 学びきったことに関しては
今生もう学ぶ必要はないので免除される様に思われる。
 
  と、同時に思うのは、この世が初めて、という魂は
     人生という名の教習所で 初級コースから
  訓練することになるので、よくよく自分自身で考え、
  時として目の前に立ちはだかる数々の障害物を
      かつて初級で学んだ経験値を活かし
   知恵を働かせ 応用を利かし 苦心しながらも
  自力で越えてゆこうとする中級、上級コースとは違い、
    解く問題も易しく 越え易いのかもしれない。

色々な仕組が判り腑に落ちた時、魂は以前にも増して
「私はここよ」とピカピカと点滅し、溢れ出たその輝きを
   愛という名のもとに 他へと (人のみならず)
    還元できるようになるのではないかと思う。


    「自分を許し、愛しましょう」 シンプル故に、
     実はとても難しいことのように私は思う。

   産まれ出(い)でた時の環境が、皆 横並びで
      全て同じのようい、ドン、だったなら、
そしてまた、最初に出会った存在から無条件に愛され
  許されてきたのなら、この言葉を掘り下げずとも
  「そうよね」と難なく実践できるのかもしれないが、
       実際には、人の作った様々な枠、
固定観念に日々もがき苦しみながら自分の【意】を知り
   この一見シンプルな 言葉の真の意味、本質を
   神ではない人間は 生涯かけて理解しようとし、
   薄皮をはぐように ゆっくりと 自分のペースで
  
実践していくのではなかろうか・・・・と、私は思う。

    あちらの世界の高級霊と呼ばれる存在は
既に肉体を脱ぎ、こ
の世では必要な うねりも含めた
      感情を越え、手放しているからこそ、
       人間である 未熟な私達に対して
         今すぐに「~しなさい」だとか 
    「~すべき」などということは一切仰らない。
「今生 越えられなくても また次がありますよ」という
 慈しみで 私達の魂の輝きを本当の意味で熟知し、
        信じ、どんな時にも見放さず
        愛して下さっているからこそ、
そこに いつかきっと 自力で辿り着けるということを
           ご存じだからこその
     「心配はしていないよ」というスタンス。
      口を出すことは とてもたやすいが、
  信じてその成長を待つ、見届けるということは
    肉体を纏っている人間の暮らす世界では、
        中々難しいことのように思う。

色々な方々が、声高らかに 簡単に「~しましょう」と
 言っていても それを今すぐできなかったとしても 
    いいのです。それぞれの学び、気づく時、
       そしてペースがあるのですから。
       そして それをすぐにできないと、
     自分を責める必要もまたないのです。


今、愛について思い、愛を新たに学ぼうとしている時、
 (人間関係も含めた)不協和音と感じていたそれらは
     私の意志とは関係なく それらの方から
     メッキがハラハラと剥がれるが如く 散り
   離れていってくれている。全ては必要な経験。
             有難し・・・・・
 一歩また、愛の本質に近づけた様な気がしている