中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

号泣

2006-09-01 08:54:51 | 身辺雑記
ある新聞の電子版を見ていたら「○○○○(若手女優の名)、△△△△に号泣」という見出しが目に入った。またかと思って詳細記事を開いてみた。またかと思ったのは、最近の新聞、テレビ、週刊誌などの見出しに「号泣」がよく出てくるが、実際には大して泣いていないということがほとんどだからだった。この電子版の記事もやはりそうで、開いて見た詳細記事の見出しは「○○○○『ボロボロに泣いた』」となっていて、つまるところ、その若手女優が自分の出演した映画△△△△の撮影の時にかなり泣いたと試写会の記者会見で話したというだけのことだった。「ボロボロに泣いた」と「号泣」は少し違うのではないか。       

前にもテレビを見ていたら、ある有名女優が亡くなったというので、彼女の後輩の女優がインタビューを受けていた。その画面の右隅に「○○○○号泣」とあったので、どんなに大泣きするのかと思って見ていたが、淡々と思い出を語るだけで、涙ぐみもせず鼻をすすることもなく何分間かのインタビューが終わった。大したことでもないのだが、何かしら「号泣」という言葉と、その言葉で表現されている実態との乖離が気になった。

言うまでもなく「号泣」とは大声を上げて泣くことで、身内を喪った中国人や韓国人が、それこそ身もだえしながら泣き崩れる場面を見ることはあるが、このようなのが号泣だろう。しかし私達日本人は人前であまり涙を見せないということもあって、なかなか号泣の場面を見ることはない。せいぜいしゃくり上げるか、はらはらと涙を流すくらいのものだろう。最近、中国でも話題になった高倉健主演の映画「単騎千里を走る」の中で、中国にいる主人公に息子の妻が、息子が死んだと電話してくるシーンがあった。その息子の妻が悲しみをこらえて、涙を見せずに静かに話す姿は彼女の悲しみの深さを想像させて、日本人にはよく理解できるのだが、中国の観客は奇異な感じを受けたと聞いた。このようなことが普通だと思うのに、マスコミの報道になると、「号泣」が頻出するのはなぜなのだろうか。

 このような大げさな表現は、他にもテレビ欄などを見ていると「激怒」、「激白」、「激論」、「激写」、「絶叫」、「絶賛」などよく目に付く。このような言葉を使うマスコミ関係者が、その意味を知らないはずはなく、要するに大げさな表現を使って読者や視聴者の興味を引こうとしているだけなのだろう。見世物小屋の引き込みのようなものなのかも知れない。私などはこのような言葉を見るだけで騒々しい感じを受けてしまい、何かにつけて「激」を冠せられると落ちつかない気分にもなる。

 大げさな表現と言えば近頃は、少し技能がすぐれている、あるいはそのように思われているとすぐに「カリスマ主婦」などのように表現し、あちこちカリスマだらけだ。これも言葉と実態がかなり乖離していることもあるのだろうと思う。あるテレビが地方都市で収録した番組の中で、美容院に就職したという若い女性が司会者の質問に答えて「カリスマ美容師の店です」と言ったのはおかしかった。まあ、「上手で評判がいい」くらいのことなのだろう。

 大げさな表現が流行するのは、それだけ今の世の中が強い刺激を求めているからとも考えられるし、マスコミなどがこのような仰々しい表現を多く使うから、ますます強い刺激が求められるようになるとも考えられる。余生のあまり多くはない者としては、この世はもう少し穏やかで静かな方がいい。