中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

落穂

2006-09-26 22:34:59 | 身辺雑記
 また嫌なニュースを聞いた。29歳の男が子連れの女性と同居してすぐに、その子ども達に暴行を加えて死亡させたと言う。殺されたのは3歳と4歳の幼女だ。可愛い盛りの幼な子を手にかけたこの凶暴な男は「しつけのために・・・」と言ったそうだ。何がしつけだとむらむらと怒りがこみ上げ、このような人として最下等の男のために命を奪われた幼い哀れな姉妹を思うと涙を催した。このような輩には可能な限りの厳罰を下すべきだと思う。類似のケースは時折ニュースで知るが、しかしそのたびに不可解に思うのは、いったい母親はこのような男の暴力になすすべもなかったのかと言うことだ。なぜ母親として身をもってわが子を守ろうとはしなかったのだろう。たとえ自分が傷ついてもそれが母性と言うものではないか。男にのぼせた母親は動物にも劣ると言うことか。


 
 電車の座席に座って出発を待っていると、4、5歳くらいの男の子が前の方から不安そうな表情と足取りでやって来た。出入り口の近くに来ると泣きそうな声で「ママ、どこにいるの」と呟きながら外を覗いた。するとホームの前の方からヒステリックに子どもの名を呼んで詰問しながら近づいてくる女性の声がして、その子がホームに出て近寄ると、姿は見えなかったがパコッという音がして、子どもは火がついたように泣き出した。その音から察するとどうやら頭を平手で叩いたらしい。子どもを引っ張り罵りながら前の方に歩いて行く母親の後姿を窓越しに見ながら、やれやれと思った。あるいは子どもの姿が見えなくなって不安に駆られていた挙句の行為だったのかも知れないが、何となくその女性の育ちや日ごろのわが子への接し方が想像された。
  
         

 前を歩いている若い女性のジーパンの尻の部分に大きな白い文字でJUICYと刺繍してあって、笑ってしまった。その文字の下にも小さな文字が書かれていたが、ちょうど腿の付け根にかかるところだったので字が曲がっていてloveだけしか読めなかった。こんなものもやはり洒落たデザインなのだろうか。「水気が多い」というこの言葉も、場所が場所だけにどうもちょっとという感じもしたのは、私の品性の低さゆえのことだったのだろうか。もうだいぶ前のことだが、英語の文が一面にプリントしてある服を着た中年の女性に出会った人がよく見ると、その中に卑猥なことを意味する言葉があって驚いたということを読んだことがある。男性雑誌か何かのページをコピーしてプリントにしたのかも知れない。横文字が何かしらお洒落なもののように思っていると、とんでもないこともあると言うことだろう。



 大学時代の同窓会に出るために広島に行った。大学に入ったのは昭和27(1952)年で卒業は31(1956)年だから、もう50年以上も昔のことになってしまった。同窓会はこれで10年以上続き昨年も出席したから、広島駅に降り立っても特に懐かしさを感じることもなかった。しかしタクシーを拾い行く先を告げ動き出すと、60歳前後の柔和な感じの運転手が話しかけてきて、その広島弁を聞くと急に懐かしさがこみ上げてきて、当時とはまったく変容してしまった街並みにも親しみを覚えた。広島弁そのものは同窓会に出るたびに広島在住の友人達から聞かされるので珍しいものではないのだが、この運転手の広島弁にはどう言うものか、何かしら懐かしさをかきたてられ、目的地に着くまでついつい昔話などをして過ごしてしまった。降りてから、お国言葉と言うものもなかなか良いものだと改めて思ったのだった。

         
 
 ファーストフード店の女子店員は決められた通りの紋切り型の話し方で接客する。相手が子どもであっても「店内でお召し上がりですか。お持ち帰りですか」などとやるので滑稽だと言った人もあった。決められた通りに話さないとまごつくこともあろうし、言葉に詰まってしまうこともあるのだろう。それに今時の若い子の言葉遣いに不安を感じることもあるのだろう。止むを得ないことなのだろうが、何となく小学校の学芸会の劇での子ども達のせりふを思い出してしまうこともある。
 以前、約束の時間に間があったので近くにあったファーストフード店に入ってコーヒーを注文したことがある。もちろん若い女子店員はマニュアル言葉で応対したが、私が金を支払うと、急に声の調子が変わって、ごく普通の女の子の声で「おじいちゃん。これ50円玉だよ」と言った。5円を出せばいいのに、少し色が黄色味を帯びていた50円硬貨を出したのだった。「ああ、どうも。有難う」と言って5円硬貨を出してそれで終わったが、急に声の調子も言い方もマニュアル言葉から変わって普通になったのがおかしかったのと同時に、思わずだったのだろうが「おじいちゃん」と言ったその店員が、何となく孫娘のように可愛いく思われた。この話を卒業生達に話したら、中の1人がが「本当はそんなことを言ってはいけないのですよ」と言った。そうなのだろう。この場合は「お客様。これは50円でございます」と言うべきだったのだろう。しかしその時には私は何かしらその店員が機械人形から人間に戻ったような安心感を覚え、親しみを持ったのだった。