中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

豆腐乾(doufugan)

2006-09-19 23:58:40 | 中国のこと
 中国の豆腐製品の1つに豆腐乾がある。豆腐を強く圧縮して水分を取った、薄く小さい四角形あるいは長方形のもので、中国各地にあるようだ。私が初めて豆腐乾を口にしたのは、上海の唐怡荷が送ってくれた蘇州の鹵汁(luzhi)豆腐乾と言うものだった。色は黒く見たつきはあまり食欲をそそるものではないが、食べてみると甘くて非常にうまく、すぐに気に入ってしまった。その後、2005年に安徽(Anhui)省の黄山に行った時、黟(Yi)県の関麓 (Guanlu)村で、そこの有名な豆腐乾と言われるものを食べた。ごく小さな店で作られている何の変哲も無いものだったが、出来たてのそれはなかなかうまかった。

 この写真の豆腐乾は私が好きだと言ったものだから西安の李真がいくつかくれたものである。


 左側は四川の成都のもので、ひりひりして辛い麻辣(mala)味。中央は陝西省のもので腊汁(lazhi)豆腐乾とあるから燻製肉の味か。右側は重慶製で香鹵(xianglu)味とあるから醤油味だろうか。

 四川の豆腐乾。それほど麻でも辣でもない。よく噛んでいると味が出てくる。このまま食べてもうまいが、料理の材料に使うものか。



 医師から文学・史学の道に入った北京生まれの趙珩(Zhao Heng)は著書「中国美味漫筆」(青土社)で「豆腐乾について」という1章を設けて、各地の豆腐乾について薀蓄のあるところを披露している。この文の出だしはこうなっている。

 「豆製品」と言う名称はこの2、30年間に流行してきたもので、この漠然としたよび方は、独特の特色のある豆腐乾[豆腐を布で包み、香料を加えて蒸しあげたもの]についていえば、実のところきわめて艶けしである。豆腐乾は中国人が発明したもので、中国人の特許品でもある。遠くアメリカ、ヨーロッパまで渡り、およそ中国人のいるところでは、さまざまな豆腐乾を買うことができるようである。

 彼によると、豆腐乾にはお茶請けなどにしてそのまま食べるものと、野菜や肉とともに調理するものとがあるらしい。私が初めて食べて好きになった蘇州の鹵汁豆腐乾にも触れていて、彼も大好きで間食にしていたそうである。豆腐乾としては高いものだったようだ。

 この趙珩の文の最後は、彼が幼い頃に毎年2、3回、家に訪れてきた老いた尼僧の想い出で、その尼僧は手作りの非常に美味しい豆腐乾をいつも手土産に持ってきたという。その文はある雪の夜に訪れた尼僧の帰っていく姿を描いて終わっているが、なかなか情趣がある。

腐乳(furu)

2006-09-19 00:05:26 | 中国のこと

 腐乳(furu)あるいは豆腐乳 (doufuru)言う豆腐製品が中国にある。初めて食べたのは2003年9月に新疆 (Xinjiang) ウイグル自治区の北端のカナス湖のホテルでの朝食の時だったから比較的新しいことだ。粥を食べようとすると、小皿に一辺が2センチほどの大きさのサイコロ状の紅い小さなものが3個ほどあった。ガイドの趙戈莉に何かと尋ねたら「紅腐乳です」と言った。それまで何回も中国には行っていたのに、初めて目にしたものだった。箸で少しつまみ取って食べてみると、ねっとりしたナチュラルチーズ状で、味もチーズのように酸味と塩気があり、粥と食べると非常にうまかった。

 前にも臭豆腐のところで紹介した発酵学者の小泉武夫氏の「くさいはうまい」(文春文庫)によると、腐乳の作り方は次のようにかなり手の込んだものである。
 
 「その製法は豆乳に苦汁を加えて寄せ固めたものを木綿布に包んで圧搾し、できるだけ水分を除いてから適宜の大きさに切り、蒸籠状の箱に入れて稲藁を敷いた土間に積み重ねておきます。一週間もすると豆腐の表面にカビが密生してきますから、これを20%ほどの塩水に漬けて凝固を強化し、その後、表面のカビを落とします。次に甕に入れ、それに白酒(パイチュウ 日本で言う焼酎のこと)を少し振りかけてから、竹の皮と縄で甕の蓋を封じ、土にその甕を埋めて1~2ヶ月間おき、発酵と熟成をおこなうのです。」

 こうすると、甕の中で主として乳酸菌や酪酸菌の発酵が起こって豆腐に酸味と特有のにおいをつけると言う。

 酒でも味噌、納豆、鰹節でもすべてそうだが、そもそもこのような発酵食品の製法はどのようにして獲得されたものなのか、最初は偶然で、後は試行錯誤してたどり着いたとはよく聞くが、この腐乳の製法を見ると、その複雑さには呆れてしまうほどだ。いったいいつごろに現在の姿に完成されたのか、古代から試行錯誤を繰り返してきたのか、いずれにしても1つの食品に長い年月をかけた人間の執念と根気には恐れ入ってしまう。

 初めて食べて以来この腐乳が気に入って、中国に行くとスーパーで買うものだか ら、友人達が何度もおみやげにくれたが、それほどたくさん食べるものでもないのでだいぶ溜まってしまった。いくつかを比べてみると腐乳にも色、味さまざまなものがある。ちなみに、初めて食べた紅い腐乳は「紅腐乳(hongfuru)」と言って、発酵の時に紅麹を使うのだそうだ。


 各種の腐乳。「茶油」は油茶と言う木の種子から採った油。「玫瑰」は薔薇。「香油」は胡麻油。




 白菜豆腐乳。西安の李真がくれた。白菜の葉で包んである。四川省成都市で作られたもの。白菜の汁、大豆、蚕豆などの混合物に漬け込んだもののようで、豆類は味噌のようになっている。山椒と唐辛子が加えてあるのが四川風だが、それほど麻(ma山椒のぴりぴりする刺激)でも辣(la唐辛子のひりひりする刺激)でもない。見た目はあまりよくなく塩気はやや強いが、非常にうまい。




 この腐乳は、ずっと前に沖縄に行った卒業生からみやげに貰ったものとよく似ていることに気づいた。調べてみるとそれは豆腐餻(とうふよう)と言い、中国に朝貢していた琉球王国時代の14世紀に中国から伝えられた腐乳が基になって作られたものだそうで、似ているはずである。




美女打ち見れば・・・ 

2006-09-18 00:07:46 | 身辺雑記
 ある大学の40代の教授が、電車内で女子高校生の体に触って痴漢容疑で逮捕されたという新聞記事を読んだ。スポーツ新聞などを見るとその行為がかなり詳細に描写されていたが、よくもまあと言う感想だ。この男、同じような行為をした前歴があって、2年前には手鏡で女子高校生のスカートの下から覗き見たという破廉恥なことをして捕まっている。その時も無罪潔白を主張し、今度も否定していると言う。不惑の年代で社会的地位も高い者がどうして重ねてこのような行為に走るのか、懲りないと言うか病気と言うか理解できない。

 この男に限らず、近頃はこのような痴漢行為やセクシャルハラスメントに関する記事をよく目にするようになった。それも大学教員、教師、警察官などが少なくないようだ。痴漢は何かしらみみっちくて薄汚くて病的な印象を受けるが、セクシャルハラスメントは多くは地位を利用していて不愉快極まりない。最も怒りを覚えるのは、小中高校の教師の教え子などに対する性的暴力だ。新聞などでは「みだらな行為」などとぼかしてはいるが、破廉恥極まりない非道なことだと思う。

 何も聖人君子面をして言っているのではない。この私も年は取ったが男の端くれとして、女性に興味関心が無いなどとは言わない。12世紀に後白河法皇によって編まれた今様歌謡集の「梁塵秘抄」には、次のような歌謡がある。

  美女(びんでう)打ち見れば、一本葛(ひともとかづら)ともなりならやばとぞ思ふ、本より末まで縒(よ)らればや、斬るとも刻むとも、離れ難きはわが宿世(すくせ)。

 ここまでの執念は無くても、美女ならずとも魅力的な女性に心惹かれるのは、男としむしろ正常なことだろう。しかし、それと破廉恥な犯罪行為に及ぶこととはまったく次元の違う話だ。心の中ではいくら想像を逞しくしても犯罪にはならない。ふと気がついて苦笑して済むことだ。

 どうも近頃は実際の年齢よりも精神年齢のほうが若くなっているせいか、高齢者でも欲望に負けた行為に走る者がいるようだ。そんな記事を読むと「いい年をしたジジイが」と舌打ちする思いになる。正直なところ、私は最近になって中国の古代の皇帝や王などの権力者が老境になると、と言っても今の高齢化社会の老人に比べるとずっと若いのだろうが、不老不死の薬を求めたと言う心境が何となく分かるような気がしてきている。特に彼らは己の精力の衰えを感じ、美女を侍らす快楽が続かなくなることを恐れ、焦ったのではないかと思う。それに比べると権力を持たない庶民など気楽なものだ。老境に入ればまた、それまでに無かった楽しみもある。その中でゆったりと生きていけばいい。若い魅力的な美女(びんでう)を打ち見て心惹かれるのもいい。何事にも無理せず素直に行動するのはいいが、しかし己の心中のけだものは自由にさせてはならない。







大熊猫(daxionmao)

2006-09-17 00:04:07 | 中国のこと
 大熊猫は、普通は単にパンダと呼んでいるジャイアント・パンダの中国名。1972年に上野動物園に初めて贈られてたいへんなブームを起こしたことは、もう30年以上も前のことになったが、今でもテレビや新聞で見た熱狂振りを思い出す。その後神戸の王子動物園や和歌山県白浜のアドベンチャーワールドでも見られるようになった。私はきれいに整備された屋舎で飼われているパンダを見ることにはどうも興味がなかったので、近くの王子動物園にも行ったことがなかったが、野生のものは不可能でも、せめて中国で飼育されているパンダを見たいと思っていた。今年の5月に四川省の省都の成都を訪れた時に、市内の大熊猫基地に行き念願のパンダを見ることができた。

 パンダの分類上の位置についてはこれまで議論されてきて、パンダ科という科を設けられたこともあったが、DNAの研究によって現在はクマ科に入れられているようだ。ネコ目クマ科に所属するわけで、大熊猫という名はそれに合っている。

 成都の大熊猫基地は広大で、堀をめぐらされた樹木の多い場所でパンダは自由に歩き回り餌を食べている。特定の品種の細い竹しか食べず、これは観客が見やすい場所に作られた餌場で係員が与えている。これだけでは足りないのか、リンゴヤ混合飼料も与えているようだ。餌の竹は1日に30キロくらい食べ、その多くは未消化のまま排泄されるそうで効率が悪い。排泄するところを見ると糞はきれいな緑色をしていた。



 基地内の道。竹が美しい。この竹はパンダの餌にはならない。




 朝食時間は午前中とのことで、基地に着いた時にはちょうど餌場で食事の最中だった。餌場は堀の向こう側のよく見える所に作られている。パンダが竹を食べる姿はユーモラスだ。両足(後ろ足)を投げ出してどっかと座り、両手(前足)で竹を掴んでムシャムシャと旺盛に食べる。時には前の堀に落ちた竹を取りに行こうとして前にのめり、両手両足を広げて仰向けに滑り落ちていく様子はまことに愛嬌があって可愛かった。







 ここでは料金を払うとパンダと一緒に写真を撮ることができる。定刻が来て係員の指示で堀にかかった小橋を渡って飼育場内に入ると、ベンチにパンダが腰掛けて待って(?)いた。そこで係員が写真を何枚も撮ってくれた。料金は訪れた月から値上がりしたようで、800元(約1万1000円)とまことに高い。子どものパンダを抱いて写すこともできるようだったが、こちらは1,200元(約1万6000円)で、縫いぐるみのように可愛いだろうが、いくらなんでも手が出なかった。飼育費の足しにするという名分があるのだろうが、それにしても商売上手でがめついのには呆れるほどだし、あらかじめ知らせてくれた中国の友人も驚いていた。
 


 基地には、レッサーパンダ (小熊猫)もいた。これこそ縫いぐるみの人形のようでとても愛くるしい。レッサーパンダ科という独自の科に分類されている。



 レッサーパンダを抱く、西安からガイドとして同行した友人の邵利明。レッサーパンダのやんちゃそうな姿態がおかしい。



 来年は成都の北の臥龍にある研究所に行くことにしている。パンダは四川省以外に陝西省や甘粛省にも生息しているが、その数は1000頭くらいで絶滅を危惧されている。保存繁殖のための研究所、施設は各地にあり、近年は繁殖に成果を挙げているそうだが、臥龍の研究所は最大の施設と聞いている。

 パンダに関係して、私が愛読している陳舜臣さんの「六甲随筆」(朝日新聞社)に面白い話が載っている。

 「一時、想像上の動物を十二支に入れるのは非科学的だと言って、龍を実在のパンダに変えよと主張した人がいたが、これはさすがに賛成者が少なかったようだ。
ー私はパンダの年よ。
というのも悪くないが、なんとなくマンガチックで、実現しなくてよかった。(十二支に猫がいないわけ)」
                   




秋灯や・・・

2006-09-16 00:09:37 | 身辺雑記
 秋の気配が感じられるようになってきた。長く残暑が続いたので一息つく思いだ。秋になると必ず口ずさんでしまう好きな句がある。

  秋灯や夫婦互に無き如く

 高浜虚子(1874~1959)の句である(朝日新聞社:大岡信「新編 折々のうた 第三」)。虚子73歳の句だそうで、ちょうど私と同じような年頃の作だ。それだけに、この句は私にはよく理解できるような気がする。「秋灯や」がいい。人生の晩秋を迎えた夫婦を象徴しているように思う。その灯火(蛍光灯ではない)のもとにいる老夫婦の姿が目に浮かぶようだ。

 このような句もそうだが、私達日本人にとって俳句はことさらに解釈しなくても、感覚的に理解できることは多いだろう。そしていわば余韻のようなものを感じ取る。これは外国人にはなかなか難しいようで、上海の外国語学院で日本語を教えている友人の孫旋が、ある現代俳句について質問してきたついでにこの句を紹介したが、彼女には深い意味は読み取れなかったようだ。逐語的な解釈はしてみたが、俳句はあまり解釈すると面白くないとは言っておいた。何かで読んだことがあるが、日本にいる留学生達に芭蕉の「古池やかわず飛び込む水の音」の情景を想像させたら、あるアフリカの学生は、たくさんの蛙がいっせいに池に飛び込む情景だと言ったそうだ。蛙が飛び込んだ後の静寂など味わいようもないが、味気ないにしてもこのような解釈も成り立つのかも知れないし、今の日本の若者に尋ねても、案外同じような答えが返ってくるかも知れない。

 次のような短歌も好きだ。

  老ふたり互に空気となり合いて
    有るには忘れ無きを思はず  (窪田空穂)        
 
 教え子の結婚式などではよく祝辞を頼まれたが、自分がかすかに年齢を感じるようになった頃からは、よくこの虚子の句や空穂の歌を紹介して、このような境遇に達するまで、ともに仲良くなどと言ったものだ。それなのに、思いもかけず妻が60歳になって間もなく逝ったので、私達夫婦はとうとうこのような味わい深い老境に達することはできなかった。

ミャオ(苗)族-15-

2006-09-14 23:59:41 | 中国のこと
 ミャオ族の人口は約40万人で貴州省に最も多く(約50%)居住しているが、その他に雲南、湖北、湖南、広西、四川にも住んでいる。

 湖南省の西部を湘西(xiangxie)と言い、ここに湘西土家(Tujia)族苗族自治州がある。この自治州の貴州省との省界あたりにある鳳凰(Fenghuang)という明清時代の古い城市は、近年観光都市として整備され、内外の観光客が多く訪れている。

 この城市には沱江(Tuojiang)という川が流れ、両岸に古い家が並んで風情ある風景を作っている。
 


 沱江に面して建てられたこの建物は、長い柱で床が支えられた高床式のもので吊脚楼(diaojiaolou)と言い、このように水に面した所でも山の斜面でも至る所に見られる。山間部のミャオ族の住居はほとんどが吊脚楼である。斜面に家を建てようとすれば、どうしてもこのような構造になるだろう。山の斜面に建てられる家屋は、斜面の下側に面して吊脚があり後方は地面に接しているから、家屋の前面は2階建てで後方は平屋になっている。



 沱江のほとりで、1人のミャオ族の女性が小さな木製の織機を使って細い帯を織っていた。この女性は龍玉門さんと言い、前にインタネットでこの女性に関する記事を読んだことがあった。鳳凰を訪れたらぜひ会いたいと思っていたので、彼女の姿を見つけた時は嬉しくて、近寄って挨拶しいきさつを話すと、彼女も打ち解けて一緒に写真を撮らせてくれた。貰った名刺には「苗族花帯織芸」とあり、彼女は苗族の伝統工芸品の花帯というものを織っている。花帯はさまざまな伝統的なシンボルを織り込んだ美しいもので、民族衣装の紐や乳幼児を背負うためのものだそうだが、意中の男性の心を繋ぎ止めておく意味もあると聞いた。1本の花帯を織り上げるのには1週間ほどかかるそうだが、1本は40元(約560円)という安さだった。



龍さんが織った携帯電話のストラップ



鳳凰にはミャオ族が多く住んでいる。街には物売りの女性の姿もよく見られる。


1日の商売を終えて帰る婦人。


 この店は豚や鶏の燻製肉を売るミャオ族の店で、ガイドの馮彦と運転手の張さんは家に買って帰ると言って入った。「腊肉」は燻製肉を意味している。店の主人は40歳代だったが私に「日本人か」と尋ねたので、そうだと答えると急に両手を組んで顔の前で軽く上下させる拱手(伝統的な中国の礼)をした。その様子が何となくユーモラスだったので思わず笑ってしまった。



 この店は別の腊肉店。さまざまな燻製肉を売っているが、米国のコミック映画のバットマンのようなのは豚の顔の部分。グロテスクなようなユーモラスなようなものだが、どうやって食べるのか、刻んで野菜などと一緒に炒めたりするのではないか。





朝の鳳凰の街並み

普通話(putonghua)

2006-09-14 00:13:30 | 中国のこと
 最近の新聞に「中国、標準語4割話せず」という見出しの記事があった。中国の英字紙が伝えたものだそうで、方言が多様なうえに、地方の貧しい農村に教育が行き届いていない実態が背景にあると言う。
 
 中国の標準語は北京語の発音を基本とした公用語で普通話と言われ、これがいわゆる中国語だ。小中学校では「国語」として学ぶことが必須とされている。中国の人口は約13億だからその40%というと5億人以上になるから、かなりの数の中国人が共通語とも言うべき普通話が話せないと言うことは「経済発展への悪影響を懸念する声もある」のも当然だろう。

 中国には方言が非常に多い。有力な方言だけでも80はあると言う。山を一つ越せば言葉が違うと言われるくらいだから、有力ではない方言の数は膨大なものと思われる。異なる方言を話す者の間では、コミュニケーションはまず成り立たないだろう。

 私の中国語などは貧弱きわまるものだが、それでも地方に行くと習っている普通話とはどこか違っているなと思う言葉にたびたび出会う。そのたびに同行しているガイドや友人に「これはどういう言葉か」と聞くが、たいていは「○○の方言です」という答えが返ってくる。簡単な例では電話で「もしもし」と言うのは喂(wei)と言い、抑揚はいろいろだ。中にはwaiというのもあった。西安の李真たちと食事した時、終わって「喫飽了(chibaole)」(ごちそうさま)と言ったら、「その発音は陝西方言です」と言われた。「飽」の抑揚が違ったようだった。この程度なら別に会話するのに東京弁と大阪弁のアクセントの違いくらいで支障はなく私にも分かることだが、実際にはまったく中国語とは違うとしか思えないような言葉が多い。

 上海語と広東語は、これは方言ではなく中国語とは別の言葉だ。聞いてもそれこそチンプンカンプンだ。1つとして分かる単語はない。上海人は上海語が中国語だと言うと聞いたことがあるが、上海で育った友人達は中国話も上海語も自由に話す。中国語は小学校に入ってから学んだそうだ。友人の1人の施路敏は幼い頃は南京の祖父母の手で育てられたから南京方言も使える。その上日本語もうまく、いったいどんな頭の構造になっているのかと思うことがあるが、この程度のことは何でもないのかも知れない。

 少数民族の言語が中国語と違うのは当然だが、それでも老人を除くとたいていの者は中国語も話す。それでも就学前の幼児は家庭では普通は民族語を話しているので中国語は話せないようだ。新疆のウルムチのバザールでガイドの趙戈莉が幼い子に話しかけたが通じず「まだ話せませんね」と言った。中国語を習わなかったために民族語しか話せない大人、特に高齢者は、学校で中国語を習った子どもを通訳にして外部の者と話すことがあるそうだ。「三国志」の蜀漢の劉備は中国北方の現在の河北省の出身だが、現在の南京付近の呉の孫権とはどのようにして会話したのだろうか、通訳がいたのだろうかなどと考えたりする。

 言語一つ取ってみても、中国は広大だとつくづく思う。今後普通話の普及がどれくらい進むのか私のような者には見当がつかないが、おそらく道は険しいだろう。中国政府は9月第3週を普通話の推進習慣にしているそうだ。

ミャオ(苗)族-14-

2006-09-13 08:27:19 | 中国のこと
 初めてミャオ族の村を訪れたのは2002年のことだった。その時は貴州省安順(Anshun)にある黄果樹(Huangguoshu)瀑布と言うアジア最大と言われる滝を見に行くのが目的で、その途中に立ち寄ったに過ぎなかった。
 このミャオ族はいわゆる黒ミャオ族の尖尖(Jianjian)ミャオと言い、貴州省の省都である貴陽(Guiyang)市に属する清鎮(Qingzhen)市*にある長坡嶺(Zhangpoling)と言う村に居住している。 
  *中国の行政区分では一般に省や自治区の下に市があり、その下に県がある    が、市に属する県級の市もある。
 
 私と同行した卒業生の女性2人がこの村に到着すると、地砲(銑鉄製の礼砲)の音が3発轟き白煙が上った。村に通ずる小道の両側には民族衣装姿の娘達が出迎え、その間を行くと門があり、そこで水牛の角の酒器に入った酒が勧められた。酒は薄くてさっぱりしていた。私達に酒を勧めた青年は、残りを自分で飲み干した。 






 村の中には広場があり、そこで20人ほどの男女の若者達が踊ったり、遊戯のようなことをして見せた。






 この娘達が被っている帽子の形から、尖尖ミャオ族と呼ばれるのだろう。



幼女



陽気な若者達



 この村を訪れてミャオ族に興味を惹かれ、また北京で発行されている「人民中国」などの記事を見て、たびたびミャオ族の村を訪れるようになった。


老いの壁

2006-09-12 00:06:39 | 身辺雑記
 「壁」と言っても先ごろ流行した「○○の壁」などのつもりではない。高齢者の域に入った私が、これから乗り越えなければならないハードルのことだ

 何かで読んだのだが、70歳代の男性の壁は75歳から80歳までで、それを無事に乗り越えると、まあまあ元気で80歳代を迎えられると言う。そうかもしれないと思ったのは、新聞の訃報欄を見ると、75歳から80歳までに鬼籍に入られた人は少なくないようだからだ。やはりこのあたりが壁かなと思う。私の父は病気もせず元気だったし、祖父母は90歳以上まで長生きしたから、母は父もきっと90歳代までは生きると信じて疑わなかった。それが急に膵臓癌を患い77歳の喜寿を迎える前に他界した。

 私は今年73歳になったから、この壁があるとすると後2年と言うことになる。まあ75歳になった途端にと言うことはないだろうが、それからの5年間は長いようにも短いようにも思われる。いや、最近の感じからするとおそらく短いだろう。そうだとするとあまり暢気にはしておられないなとも思うが、と言って切羽詰った気持でもない。

 徒然草の155段に「死期は順序を待たない。死は前方から目に見えてはこない。あらかじめ背後に切迫している。人はみな、死のあることは承知しているが、今にとのんきにかまえている人に対して不意を襲う。沖まで干潟が遠く見えているけれども、磯には突如と潮の満ちてくるようなものである。」(河出文庫:佐藤春夫訳「現代語訳 徒然草」)とある。もっともだと思う。私にとっては、もはやそんなに遠くまで干潟が見えていることはないが、「今にとのんきにかまえている」ことはある。改めて後ろを振り返って見て一応は神妙な気持ちになってもすぐに忘れてしまうのが、凡夫というものだろう。

 とにかく、「壁」はあまり遠くない所にあるようだ。妻が逝ってしまってからは死ということに淡白になってはいるが、まだまだ楽しみたいこともあるから、せいぜい助走を心掛けて、壁を乗り越えるとするか。


ミャオ(苗)族-13-

2006-09-11 00:02:48 | 中国のこと
 貴州省雷山県北部、凱里市との境界近くに朗徳上寨 (Langdeshangzhai)というミャオ族の村があり、国の重要文化財保護指定を受けている。

 小高い場所から村を俯瞰すると、斜面に作られた民家の黒い瓦の屋根が美しい。ミャオ族の多くは山間部に居住するためか、山の斜面に作られた村落や民家は多い。




村への入り口。村内の道路は石で舗装されていて清潔な感じがする。




正装した女性。西江型の服装が美しい。



 村の広場の石碑には「朗徳上寨古建築群」と記された碑があり、この村の歴史が古いことを示している。そのあたりに尋ねる人がいなかったので、いつの時代からある村なのかは分からなかった。



 この広場のそばにある一軒の民家に入り、衣裳を見せてもらった。ガイドの馮彦がその家の女性と交渉してくれて、正装の衣服を見せてもらった。その家ではその衣服を使う女性はもういないようなのでスカートを売ることを承知してくれた。上着も勧められたが少々かさ張るので持ち帰るのに苦労するだろうと思って断ったが、豪華な刺繍を施したもので、今思うと惜しいことをした。



 





その家の幼女に母親が正装させてくれた。



 この村では私が訪れた時に国内の観光団体が来ると言うのでその準備をしていた。上の写真の正装の女性もそのために着替えていたようだ。足元にある籠には刺繍などの手作りのみやげ物が入っていた。村の広場では観光客に民族踊りを見せると言うので一緒に見物しようと思ってしばらく待っていたが、いつまでたっても始まらないので諦めて帰ることにした。村の外の道路に出ると、ちょうど2台の大型バスが到着したところで、ドカン、ドカンと大きな音が轟いた。ミャオ族の村では客を歓迎するのに、地砲と言う地面に置いた小型の大砲のようなものを撃つことがよくあるらしい。

 あちこちの有名なミャオ族の村には国内からも観光客がよく訪れるようだ。しかし多くは物珍しさで来るのではないだろうか。馮彦から聞いたことだが、ある村に南京から来た団体を案内し伝統的な踊りを見せたそうだ。見終わって帰るその観光客達は口々に「こんなものは何の価値があるのか」、「時間の無駄だ」などと言ったそうだ。都会人の田舎の人達に対する優越感、漢族の少数民族の文化に対する無理解なのではないかと思った。このような少数民族に対する漢族の蔑視の例は他にも聞いたことがある。漢族の「中華思想」は同じ中国人に対しても向けられるのだろうか。村の広場にいた観光客の若い娘達はミャオ族の衣装を着てはしゃいでいたが、彼女達中国の若い世代が、自国にいる少数民族を物珍しさだけで見るのでなく、古代から続いている貴重な民族文化の継承者として、また中国文化の担い手の一部として理解するようになってほしいと思う。