母の戦後
いつもきちんとしていた母ですが、年と共に片付けることが難しくなってきています。何度も引っ越しをして今ここに居るので、何かと処分してきたものも多いはず…でも手元に残っている書類もあれこれあり、一緒に整理を始めました。
そして見つけたのが、このセピア色の紙片!この古い紙片だけが和紙に包まれてありました。
これは短歌が書かれているようです。
「みはたとへ いづこの野辺に 果てるとも とどめ残さん 大和なでしこ」
この歌を読んで、この方の決死の覚悟に胸がいっぱいになりましたが、その裏には母の字で、終戦間近い日付けと満州出発の文字!これには何ともやるせない思いも…とにかくこれを見ただけで万感胸に迫る想いでした。
母に話を聞きました…母は戦時中、代用教員として教壇に立っていました。この方は母の教え子で12歳の少女、開拓団の一員として家族で満州に渡って行ったそうです。その出発の前に母に託した手紙とのこと…この日付、昭和20年6月6日は終戦まであとわずか…不安も大きかったことでしょうがこの歌のような覚悟を決め、気持ちを奮い立たせて出発したのかもしれません。大和撫子の誇りを胸に…
母も当時は家族と一緒の新天地での暮らしに一縷の望みも覚えて送り出したようですが、その後の終戦、引き上げの大変な話を聞くにつれ、不安が募ったそうです。戦後、母は結婚しあわただしい生活の中でも気になっていて、落ち着いた頃になってこの時のクラスの方に消息を訪ねたりしたそうですが不明のまま…開拓団に家族で行かれた方は田畑屋敷もすべて処分して出かけたので、地元に帰られる方は少なかったそうです。母もずっと気になってこの手紙は処分できなかったようです。
私は満蒙開拓団に関するこの手紙について、多くの方に見ていただいて、ひとりの少女の声に耳を傾け、その背景にある戦争や平和を考えるきっかけになればと思い、「満蒙開拓平和記念館」にメールをしてみました。
そうしたところ、学芸員さんがこの少女の消息を確認してくださったのです!開拓団の名簿が作成されていて、コピーを送って下さったのですが、昭和21年10月25日に引き上げで帰還と記されていました。これを母に伝えたところ、「帰ってこれて良かった…」と心底ほっとした様子でした。(ただ、お母さまは現地の収容所で亡くなられていました)
母もこの手紙を「満蒙開拓平和記念館」で見てもらいたいとのことで、先日阿智村までこの手紙を持って行ってきました。阿智村は南信州の飯田市の向こう、こちらから100㎞近く南にあります。
内部は撮影禁止で写真はありませんが、「今、伝えなければならない満蒙開拓の歴史ー平和への願いー」のコンセプトで作られている記念館です。「前事を忘れず、後事の教訓とする」の言葉も印象に残りました。
学芸員さん(名簿で消息を探してくださった方)が丁寧に対応してくださいました。行った日に学習会があって、この手紙を取り上げて皆さんに紹介して考えていただきますとのこと…役立てていただけて良かったです。
庭にあった鎮魂の碑に向かい、平和を祈って帰途につきました…
近くの道路沿いにあった阿智村出身の写真家、童画家の「熊谷元一」の作品レリーフ…その昔のこうした姿に心癒されます。
阿智村の田園風景…暑い日でしたが、稲田を渡る風は心地よかったです。
この歌を託した少女の現在の消息までは分かりませんでしたが、無事に帰還されたことは確か…母の戦後から多くの方の戦後にも思いを馳せる一日となりました。
この日の空模様…不安の中にも希望が見いだせると解釈したい空模様でした…