(八鹿・江原・国府・豊岡駅と続きます)
先日寄ったNさん宅で奥さんが、「八鹿のおりゅう柳の話、調べたの?ブログ読んだよ」とお尋ねです。
「八鹿駅は去年100年だって、江原駅は今年かな」とお話です。
麻生総理が、「100年に一度の大不況、全治に三年かかる」と、確か発言でした。
その100年前に、我が町の江原駅が出来たわけですね。
江原駅の100周年の行事予定なんぞ、まだ耳にしていませんが、確かに今年が100周年です。
山陽線は姫路駅の開業が明治21年12月23日、播州から北上して但馬を結ぶ播但線(ばんたんせん)は、
銀山で有名な生野(いくの)までの開通が、銀の搬出の必要性から明治28年4月17日と比較的早かった。
その後、終点和田山駅が明治39年4月1日開業で全線開通でした。
日高町発行の、「愛するふるさと、ひだかの宝・ひだか辞典」に、江原駅の由来が書いてありました。
京都からやってきた山陰線が、和田山、養父、八鹿と開業し、八鹿・豊岡間に一駅が予定された時、
江原(えばら)付近か、国府の土居(どい)か府中新(ふちゅうしん)付近の3候補で検討、
ところが、どの地区も大反対の運動です(全国どこでもありました、汽車のばい煙が農作物に、牛に被害が出るの、駅ができると若者がダメになるのと云う反対です)。
江原村の田口幹太郎氏が用地を寄付、江原村も造成費を拠出・寄付して、めでたく明治42年(1909)7月10日に開業したそうな、
田口さんと江原村の絶大な貢献に敬意を表し、「江原駅」の名称が残ったと云う由来です。
駅名を、「田口駅」とか「田口江原駅」にはしなかったのですね。
余談ですが、ちょっと前のテレビでこんな話題を聞きました。
大阪の近鉄線に、「針中野(はりなかの)駅」がありますが、大正のころ「中野小児鍼」を営む中野さんが、用地を寄付して駅がめでたく開業したそうな。
鍼(針)の中野さんから、「針中野駅」と命名され、その後周辺の地名も針中野と変更になったようです。
駅名の由来にも、それぞれとっても大切な歴史があるのですね。
(4月5日、鳥取からの帰り道に余部鉄橋、
高さ40mを超すクレーンで工事中)
それから3年後の明治45年3月1日、日本海沿いの餘部村(現在の香美町余部)に餘部(あまるべ)鉄橋、
江原駅が開業した明治42年から工事を開始、世紀の難工事の末に、東洋一を誇る高さと長さの最新式の鉄橋が完成です。
その餘部鉄橋も現在は、新しいコンクリート橋へ架け替え工事中、
工事現場に、「ありがとう余部鉄橋・明治45年から約100年!」の看板が、100年間も頑張った餘部鉄橋を見上げています。