電話の向こうで春の空気に弾んでいる友人の声が流れる。
こんな日にはおしゃべりが弾むものだ。
イタリアに小旅行したい事とか、あの展覧会に行こうとか、ベルリン、ミュンヒェンに行くのもいいなあとか、プラハはどうだブタペストはどうだと町の名前が並んでゆく。
無性にどこかへいきたくなることはあるけれども、私はたいてい旅行を必要としていない。
まあ、実を言うと私は面倒くさがり屋なのだ。
私にとって旅の意味は「見つける事、感じる事」だろう。
身近なところにも「見つける、感じる」物がたくさんあるのでとても忙しい。
それでもたまに移動することで強い刺激を求めたくなることもある。
さて、手始めにどこへ行こうか?
頭の隅でそんなことをふつふつと思いながら友人の声を聞いていた。
彼女の言葉はかなりブロークンなドイツ語で神経を集中していないと糸口を失い、迷子になってしまうのでよそ事を考えていると大変なことになる。
(もっとも私の方だって人のことを言えた義理ではない)
外国人同士で異国語を話す時、迷路に嵌ってお手上げになることもあれば、または言葉を超えた相互理解が起こることもある。
話も終わりになった頃「ああ、そうだ!もうひとつ話があった」という。
彼女は毎年庭に出来た鳥の巣が空になっているのを見回ったり、集めたりしている。数日前に一つの鳥の巣の中に何かが入っている様子を見て、はしごに登って中をのぞいてみたらしい。
壊れた卵とか、雛の屍骸などを想像しながら、積もっていた枯葉を指でそっと取り除くと、胡桃がちょこんと収まっていたのだそうだ。完璧な胡桃だ。
私がリスの仕業ではないのかと言ってみたが彼女は納得しない。鳥が持ってきて置いたのだろうと言う。一体鳥が何を思って空の巣に胡桃をくわえてくるのだろうか?
そのままにしておいたら、朽ち果てた鳥の巣から胡桃の芽が出て来て、妙な場所に胡桃が生えているという景色を想像した。
それとも日差しのぬくもりが溜まっていって、ある日パカッと種が二つに割れ、胡桃の種ほどに小さい鳥が飛んでいくなんていうのも良い。
そんなことを考えながら、鳥の巣に編み込まれたた自分の髪の毛の事、別の巣には贈り物用のリボンが編まれていた事などに耳を傾けていた。
こんな話を受け取るのも、やっぱり一つの旅ではないのか。
そして「こういう報告はね、あなたにしかしないのよ」と彼女は言った。
(写真は、私が森を散歩していて見つけた中身を抜かれた胡桃の実)