できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

こういう教育をしてほしいのですが

2008-10-05 20:29:32 | 受験・学校

前にも書いたとおり、自宅のパソコンが現在修理中で、古いノートパソコンを持ち出して今は仕事をしています。今回はその古いノートパソコンから、このブログが更新可能かどうかのテストのような意味で、最近、大阪市や大阪府の教育改革について私が感じていることを書きます。

さて、大阪府の教育改革のプランがどのようなものか、まだ府教委のホームページから確認していないのでなんともいえないのですが、少なくとも新しい教育委員が任命されても、府の特別顧問に名物民間人校長経験者を任命しても、私は「いままでやってきたことの大枠をあまり越えられないのでは?」と思っています。

橋下知事や新しい教育委員、教育面での府の特別顧問の方がご存知かどうかはわかりませんが、もともと大阪府教委は私の見たところ、かなり学校現場での諸課題について、他の都道府県ではやってこなかったような取り組みを意欲的にやってきた教育委員会のように思います。また、その点でいえば、大阪市教委もそうですし、その他、府下の自治体教委レベルでみても、意欲的な取り組みを実施してきたところが多々あります。

例えば、今年から文部科学省が実験的な試みとしてスクールソーシャルワーカーの派遣事業をはじめましたが、その試みはもう3年くらい前から、大阪府教委と府下のいくつかの自治体教委で、研究者などの応援を得ながら行ってきたことです。あるいは、障害のある子どもの地元学校への就学についても、大阪府下の一部の自治体レベルでは、たぶん全国に先駆けて行っていることが多々あるはずです。これなども、インクルーシブ教育などの世界的潮流にかなり近いことをやってきているように思います。そして、「学力向上」の取り組みについても、府下のいくつかの学校で研究者が調査に入り、その結果をもとに学校・家庭・地域社会の連携によってプランをつくり、なんとかして「底上げ」を図る方向で努力してきた経過があります。また、小学校区あるいは中学校区レベルで、学校と地域社会の人々の連携をはかるような「教育協議会」的な組織をつくってみようと、いろんな地域で努力してきた経過があります。「よのなか科」的な取り組みにしたって、例えばホームレス問題を含む人権やマイノリティの諸課題についてであれば、府下の各学校で「総合的学習の時間」などを使いながら、人権学習の枠内でいろいろやっているんじゃないでしょうか。

こういったことを見ていると、もちろん、何もかもすべてがうまくいっているわけではないということはあるにせよ、私はこれまでの大阪府教委や大阪市教委、府下各自治体教委の取り組みが、必ずしもすべてダメだとは思わないのです。

むしろ、これまで大阪府教委・大阪市教委、府下各自治体教委レベルで取り組んできたことの成果と課題をきちんと整理して、その問題点を打開するような地道な取り組みをしたり、今まで成果をあげていることをきちんと継続できるような教育財政面でのサポートをしたり、というような取り組みこそ、これからの教育改革に求められていることのように思うわけです。

うがった見方をすれば、今、橋下知事がマスメディアレベルで伝えていることを見る限りでいえば、例えば「教育財政面での府から各自治体教委へのサポートをはずすために、全国学力テストの結果公開を迫っているのか?」とか、「各学校や自治体教委レベルでの地道な授業改革やカリキュラム点検の試みを阻害することが狙いなの?」とすら、私などは思ってしまうのです。

さらに、今、私などが大阪市や大阪府、さらに府下各自治体の教育改革の動きを見ていて、「もっと、こういうことをやってほしい」と思うのは、ある種の市民性育成の教育とメディア・リテラシー教育の充実のように思います。

それこそ、例えば、テレビや新聞などのマスメディアが繰り返し流す大阪府の行財政改革の動向に対して、子どもや若者の立場からどうそれを批判的にとらえ、府や自らの暮らす自治体の調査などを通じて事実を検証し、なかまや教師との議論をふまえて、行政当局側が出すのとは異なる案をつくることができるかどうか。こうしたことは、ある種のメディア・リテラシー教育でもあるし、「平和的な国家・社会の形成者」として必要な「公民的資質」を養うという、現行学習指導要領でいうと社会科や公民科の目標にも沿った教育のようにも思うわけです。

こういったことをまとめて、良識ある「市民性」の形成といえばいいのでしょうか。また、日本国憲法や国際人権条約類を含め、法や権利(義務)について学ぶ教育や「参加型」の学習方法も、こうした「市民性」の形成とつなげて、自らの暮らす地域社会をよりよくするための教育として行う必要があると思います。

あるいは、異文化理解や多文化共生の試みなど、日本社会に暮らす多様な人々のことへの想像力を高める教育とか。たとえテストで評価できる学力が高くて、有名大学に進学したり、あるいは高級官僚や大臣クラスの政治家になるような力があっても、例えば日本に暮らす外国籍の人々や、アイヌの人たちなどへの配慮に欠くような発言をするような、そんなことでは、やはりその人の知性や教養を疑ってしまいます。

「ほんものの知性・教養」というのは、ただ単にテストで評価できる学力が高いか低いか、という話ではなく、「この社会で私たちはどういう人たちと共に暮らしていくのか?」ということについて深く考え、発言・行動する力と結びついていくものではないのでしょうか。

そして、こうした「市民性」の形成や「ほんものの知性・教養」を磨く試みというのは、義務教育段階や高校教育段階で終わるものではなく、大学や短大、専門学校といったいわゆる高等教育段階でも必要ですし、さらに「その後」、つまり社会教育・生涯学習における成人分野での取り組みにおいても必要なことのように思います。

この点でいえば、義務教育や高校教育の改革だけでなく、大阪府教委や大阪市教委、府下各自治体教委が、成人分野を含む社会教育・生涯学習の領域をどのように位置付け、活性化するのかということも、教育改革の重要な課題であるように思います。また、そこから考えれば、社会教育・生涯学習関連の施設や各種文化施設の整理(統廃合)をすすめる一方で、教育改革プラン=学校教育改革プランにしてしまうということが、いかに府民及び各自治体住民にとってマイナスかということもわかります。

情報化や国際化など、社会の変化のスピードがはげしい社会のなかで、人々がよりよく暮らしていくためには、義務教育段階や高校教育段階での学習だけで対応できないのではないか、という情勢認識(というか危機意識)は、少なくとも1980年代~90年代の日本政府レベルでの教育改革のなかで共有されていたことではないでしょうか。そのようなことに触れた文章は、繰り返し、臨時教育審議会(臨教審)や中央教育審議会の当時の答申を読めば出てくるはずです。そういうことから考えても、社会教育・生涯学習領域の取り組みの充実、活性化は、大阪府・大阪市や各自治体の教育改革で、無視することのできない領域のはずなのですが。

このような次第で、私は大阪府教委や大阪市教委、府下各自治体教委にはぜひ、今まで述べたような観点からの教育改革を、学力テストの結果公開や学力向上策の充実以上に行っていただきたい、と思っています。

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