神戸・須磨の小学校の一件や組体操の問題にしてもそうですが…。「いまこそ、既存の認識の枠組みに依拠して議論していると危ない局面はない」と、私は考えています。
特に左派・リベラル系の人たち、あるいは人権派と呼ばれる人たちも、「自分たちの既存の認識の枠組み」が「逆手にとられたり、うまく利用されている」という状況認識を持っておかないと、気付けばとんでもない教育改革のお先棒を担がされることになりかねません。
それこそ、いままで左派・リベラル系の人たちや人権派の人たちが指摘したような神戸の学校の問題について、いま、ネット右翼(ネトウヨ)やそれにつながる政治勢力が大喜びで、マスコミ報道を受けてSNS上で盛り上がっているのはなぜか。
そこを私なりに考えてみますと…。
わかりやすくいうと、いま、神戸で市長らが外圧を利用しつつやろうとしているのは、大阪の橋下・吉村改革の二番煎じ、三番煎じの首長主導の教育改革ではないかと思います。神戸ではつい最近、こうした学校の問題以外にも、公務員労組の「ヤミ専従」の問題が表面化していたことを思えば…。「ああ、これって、大阪の二番煎じだよな」と思われる節が多々あります(かつて橋下大阪市長(当時)が就任当初、公務員労組にアタマ下げさせたりするために、どれだけの攻撃を加えてきたかを思い出してほしいです…)。
また、その最初の段階で「抵抗勢力」となる学校や教委、教組、校長会等々の力を「削ぐ」ことを目的として、市長らは数々の不祥事を利用し、「悪代官を成敗するご公儀」像に自らを位置づけ、「劇場」をつくろうとしている…といえばいいでしょうか。
だから、市長らはこの何年か、「学校はけしからん」「教委はクソだ」という言説の持ち主を探して、その言説が煽られることを、どこかで待ち望んでいたのではないかと。
そこへ左派・リベラル系や人権派から、いじめ対応の問題や組体操の問題とか、教員間いじめの問題とかに関する議論を持ち込んだら…。
市長らとしては、外に向かっては「本市・市教委の対応が問題ばかりで申し訳ない」とアタマさげまくるのでしょうけど、内心はどこかで「チャンスだ。ここで今までやっかいだと思っていた存在、全部、始末してしまおう」と思っているのでしょう。
ちなみに、ここで神戸で首長主導の教育改革がすすめられたとします。首長優位で何事も進みますから、神戸でも大阪のようなチャレンジテストやろうと思ったらできますし、校長会も教組も反対する力ないですし、教委内部でも抵抗できなくなりますよね。あるいは「いじめ対応」の上手下手で教員を査定して、給与に反映させるシステムの導入なんてことも、いろいろやれます。
そして、これこそまさに、私が今まで書いてきた教育版ショック・ドクトリン、あるいは惨事便乗型教育改革ですよね。
さらに、こういう「悪代官を成敗するご公儀」像を描く「劇場」は、ネトウヨとそれにつながる政治勢力にとっては「大嫌いな教組、公務員を叩けるチャンス」くらいにしか思っていません。「いてまえ~、やれ~」とばかりに、「行政は加害教員を処分しろ、早く始末せえ」と言うているのでしょう。
なので、左派・リベラル系の人や人権派の人ほど、今は「たしかに学校や教委の対応のこことここは問題で、それは是正する必要があるが、それ以外のことについては必要なし」と、自分たちの議論のリミットを設定して、ネトウヨやそれにつながる政治勢力、あるいは「これを機会にやっかいな存在を始末してしまおう」と思っている市長らに対して、一線を引いておかなければいけないかと思います。
つまり、左派・リベラル系の人や人権派の人たちが「既存の自分たちの認識枠組み」を前提にして、今までどおり「にっくき学校・教委」みたいなことをやっていると、市長らの思惑に利用されたり、ネトウヨやそれにつながる政治勢力と同レベルの発想に自分たちが落ちてしまう…ということです。
このような次第で、以後、私は「既存の自分たちの認識枠組み」を疑えない左派・リベラル系や人権派の人たちとも、ネトウヨやそれにつながる政治勢力とも、そして「この機会にやっかいな存在を始末してしまおう」と思っている市長らに対しても、あえて「一線を引く」かたちでものを考え、発信していこうと思うのでした。そういった人たちと同レベルに、自分の考えを落としたくないので…。
なお、最後に一応、あえてお断りしておきますが。
私はいままでの神戸の学校でのいじめ対応がよかったとは思ってませんし(だから再調査委員会のアドバイザー的な仕事もした)、教員間いじめについてもしかるべき対応があると思います。組体操問題についても、もう一度この安全確保策でよかったのかどうか、議論を練り直す必要があると思います。
ですが、私は、そういう地道な学校現場での実践を見直し、問題点を是正していく営みをまずは大事にすべきであって、それ以外の思惑で「余計な改革をするなよ」と市長らには言いたいわけです。また、そういう地道な営みの「じゃま」になるような騒ぎ方を外の人がするのはやめてほしい、とも思うわけです。
なぜこういう冷静な議論ができないのか。左派・リベラル系や人権派、あるいはネトウヨとそれにつながる政治勢力の両方に、私はいま、神戸の問題では疑問を感じています。