できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

おかげさまで無事「全国学校事故・事件を語る会」の大集会が終わりました。

2019-06-03 10:24:57 | 私の「仲間」たちへ

おかげさまで、6月1日・2日の全国学校事故・事件を語る会の大集会、無事に終了しました。

あらためまして、お世話になったみなさんに感謝いたします(昨日もフェイスブックやツイッター等々でお伝えしたかと思いますが…)。

それにしても…。ここのところ毎年のように、誰かの「むちゃぶり」で、2日目のシンポジウムの「まとめ」という役が私のところへ回ってきますね。

まぁ、最初に基調報告といって好き放題、代表世話人が言いたいことを言い…。そのあと「めちゃくちゃひどい事後対応」の報告と「事後対応はこうなってほしいよね、どこもかしこも」と思うような報告、そして「調査委員会の報告書が出たあと地道に学校側と遺族側で対話を続けようとしている事例」という、タイプのちがうお三方の報告があって、ここで午前中おわり。

お昼休みにお弁当をたべて(その間にギター弾き語りミニライブがあったりして)、午後からは、みんなそれぞれに思うことを言っていて、司会の方もさぞかしお困りだろう…と思うような時間があって…。

そして、私のところへ「まとめ」の時間がまわってくるという、なんともまぁ「むちゃぶり」のような時間でした。といっても、これがなんだかこの数年、大集会のシンポジウムの「恒例行事」になっている感がありますが。

そんなわけで、みなさんが好き放題言って、あっちこっちに議論がとっちらかっているのを、私がいつものとおり「遺族や被害者家族でもなく、法律家でもなく、あくまでも自分は教育学の研究者、さらには人文系の諸学問領域の研究者であるという目線で」議論をひとまず整理して、自分の本の売り込みもちゃんとやって、少し笑いもとっておわるという、そういう「芸」を今年も見せてしまったわけです。

あ、おかげさまで、この2日間で『新しい学校事故・事件学』を20冊、売りました。お買い上げいただいたみなさんに、この場をお借りしてひとことお礼申し上げます。なかには何冊かまとめ買いして、誰かに配ると言っておられた方が居られました。たいへんありがたいことです。

一応、この場で最後の「まとめ」で話したことと、途中で少し話させていただいたことの要点を書いておきますと、こんな感じですかね。

(1)途中で話したことは、私がいつも基本的に調査委員会レクチャーで話していることですね。具体的なことでいいますと…。

①「亡くなった子どもや深く傷ついた子どもの記憶の共有」というところから学校コミュニティの再生、公教育の再建に取り組むという課題を調査委員会の目的にするということ。

②亡くなった子どもや深く傷ついた子どもを主人公としたストーリーを描くということ(そのために人物像を明確にするということ)。

③「脇役」や「背景」もていねいに描く、つまり周囲の子どもや教職員、遺族や被害者家族の話をていねいに聴き、学校の抱えていた諸課題も明らかにするということ。

④そして、調査の途中経過や最終報告書の内容を遺族や被害者家族とも共有して、公開可能なものにするということですね。

(2)最後のまとめのところでは、今回は「対話」が中心的なテーマだったので、いつもの「気まずい共存」(内田樹さん)や「思考の肺活量」(鷲田清一さん)の話を少し、おりまぜておきました。その上で…。

①どうしても目の前の困難に注目してしまうのだが、時間軸を長く、10年、20年…という単位でとって見ていくと、被害者家族や遺族をとりまく状況が少しずつ変わってきている、ということ。

②「学校の危機管理を疑え」ということ。たとえば重大事故・事件発生後、子どものなかには「自分たちにできることはないか」と思い、正直に思っていることを誰かに伝えたい子どももいる。でも、学校関係者向けの危機管理研修では、「無理に話をさせないほうがいい」と教えられている恐れがある。このように、「危機管理」と称して行われていることの内実を見つめて、組み替えていく必要があるのではないか。

③「公平・中立」や「尊厳」「回復」等々、同じことばを使っていても人によってイメージがちがうことばについては、何がどこまで同じで、どこからちがっているのか、そこを吟味していく必要があるということ。

④5年でも、10年でも、我が子に起きた出来事を納得できるまで考え続けざるをえない被害者家族・遺族とつきあうためには、学校や行政の関係者、研究者・専門職、マスコミ等々にも、そのくらい「問い」を引き受けていくことが必要なのではないか(=ここで「気まずい共存」や「思考の肺活量」ということばが活きるわけですが)。いますぐになにかできるとか、わかるとかいうことができなくても、まずは、それぞれの人が、それぞれの立場で、問われている課題を引き受けていくことが大事。

⑤どうしてもこの場では被害者家族・遺族と学校・行政という関係で物事を考えてしまうが、周囲の子どもや保護者、地域住民のあり方も大事。被害者家族・遺族の孤立を防いだり、誹謗中傷を減らしたり、あるいは調査・検証作業への協力を呼び掛けたりするうえでも、周囲にいる他の人びとがどう動くかが大事になってくる。こうした人々のなかにも、自分を「当事者」と考える人がいるかもしれない。

⑥公立学校が地道に事後対応の改善や事故防止策の充実に努めているのであれば、私立学校も国立大学附属学校も同レベルの対応を行わなければいけない。でなければ、私立学校や国立大学附属学校の「公共性」が問われるのではないか。

ざっと、昨日のシンポジウムで私が話したことの要点は、こんな感じです。

そうそう、1日目の分科会ですが、私はお子さんが重い後遺症のある被害者家族のグループのところで司会をしておりました。こちらの方では、次のような「議論の軸」を自己紹介を聴きながらつくって、みなさんで話をしていただきました(自己紹介をひととおり聴いている間に、議論の軸をつくったんですよ、その場で)。

(あ)まずは「当日、我が子に何があったのか、きちんと知らせてほしい」(説明やその前提となる事実確認、調査・検証、原因究明等)。

(い)(あ)がうまくいかないから、学校や教育行政との間でさまざまな争いが起こる。さらに、その延長線上に訴訟も起きる。このような学校や行政、訴訟に関する悩みがある。

(う)(あ)(い)のような課題を解決しなければいけない一方で、日々、後遺症に苦しむ我が子と自分たち家族の生活をつくっていく必要がある。こちらの方でも、さまざまな悩みがある。

(え)こういう(あ)~(う)の諸課題をふまえて、「私たちにはこんな支援がほしい」ということ。

この(あ)~(え)の諸課題は、たぶん「事故死」や「自死」の分科会とも共通する部分があると思います。

ということで、今後「分科会の司会者デビュー」を目指すみなさん、「こういうことを議論の軸として話をすればいいんだなぁ」と思って、参考にしてください。

ということで、長々と書きましたが、2日間の報告でした。


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