できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

「代替授業」の準備を続けるなかで考えたこと

2020-05-10 22:39:07 | 私の「仲間」たちへ

○下記に書いた内容は、昨日~今日にかけて、フェイスブックやツイッターなどで書いたことを整理してまとめたものです。

このところ、うちの大学でもインターネット経由の代替授業をやっているのですが…。

「双方向でリアルタイムの~」なんてこともせず、あるいは「動画配信」なんてこともせず、ただ、毎回、どの科目も配布資料を「読み物化」したうえで、その「読み物化」した内容にコメントを加えるだけの課題をつくる。

私の代替授業は、そういう「古典的」な方法です。

でも、そんな「古典的」方法をとるなかでも、私の配布資料を読みこんだ学生たちのなかには、いろんな思いが芽生えるようです。その芽生えた思いをコメントとして返してくるので、私はそのコメントにまた自分の思いを書いて、学生たちとのやりとりを続けています。

そのやりとりのなかで、下記にも書きましたが、自分が教育学の研究者として、教職課程の担当教員として、もう一度「生き直し」をしようとしているのではないか…と思うこともでてきました。

そんなことをふまえて、以下の内容を書きました。

<以下、まずは昨日(5月9日)にフェイスブックやツイッターに書きこんだこと>

先ほど残る1科目の代替授業の準備終了。で、即、PDFを配信。こんな感じで自分の担当科目の配布資料を加工して「読み物」にするという作業をして、代替授業に連日、対応しているのですが…。この調子でいくと、担当各科目のテキスト本が学期末にできてしまいそうな感じです。

もともとある人に、「住友さんの講演・講義の配布資料って、そのまま手を加えたら活字(論文や雑誌記事、本の原稿等々)になりますよ」と言われたことがありまして…。ほんとうに4年ほど前に、社会科公民科教育法Ⅰの授業の配布資料を全部「読み物」化したら、テキストが1冊できあがったことがありました。あのときの経験がいま、代替授業の準備に生きております。

しかしまぁ、この調子で「読み物」化する作業を延々と続けていて、我が身が持つのだろうか。やっぱりどこかでダラダラデーやゴロゴロタイムを設けて、休まないといかんな~。

でも、正直なところ、まじめに送った「読み物」を読み込んでコメントを返してくる学生が多くて、とても励みになる。教育学研究者として、教職課程科目の担当者として、自分がなんか「生きなおし」をしているような感覚すら覚えることもあるなあ、この作業。ネットで動画配信にしなくてよかったと思う。

文章ばかりでほとんど図表のない配布資料だけど、そこで使われている「ことば」から学生が何かを感じ取って、私が配布資料で書いたことと「化学反応」みたいなものを起こして、いいことを思いつきはじめている学生が、まだ3回くらいしか代替授業やってないけど、確実に出始めている。

学生たち個々の問題意識に持続的な「化学反応」を起こす「ことば」を見付けて、それを資料にできるだけ書きこんで、投げかけていくということ。それしか今の自分の代替授業ではできないのだけど…。でも動画配信とか「見栄え」にだけこだわって中身のない授業より、はるかにましだと思う。

「学ぶこと」と「教える」ことの関係の本質は、ここだと思う。学生たちに持続的な問題意識が生まれるために、この子たちの思考の化学反応を引き起こす言葉をどうやって見つけて、ぶつけていくのか。林竹二の授業論が好きな私にとっては、そこがすべて。動画配信だの双方向授業だのは、どうでもいい。

そんな自分にとっては「どうでもいい」ネット関係の情報配信の技術習得にかける時間があれば、学生とネットで雑談したり、あるいは自分の興味関心ある領域の文献を読みこむかをして、学生たちの思考や興味関心に確実に届く「ことば」を探す努力をしていたいなぁ。

いまはもっと「学ぶこと」と「教えること」の関係の本質的なところからきちんとつかみなおすような、そんな議論をしていたいわ。バカバカしい議論につきあっている時間が惜しくてしょうがない。そう思う今日この頃です。

<以下、昨日(5月9日)に、上記とは別にフェイスブックに書きこんだこと>

当面の私は「学ぶこと」と「教えること」の本質的な関係を見つめるところからすべての議論を構築していきたい。「9月入学」移行も「オンライン授業」も含め、上記以外の話はすべて今の私には「どうでもいい話」なので一切「無視」で「相手にしません」。

子どもや学生の「学びたい」という思いに、我々が教師として何を提供できるか。そこに教育や学びの本質的な営みがかかっている。いつから私ら教師は「年間○時間授業を終わらせないかん」「そのためにはネット配信で」「9月始業もあり」とかというだけの存在になったの?

あえていま言っておく。毎日「ネットで朝礼」「出欠確認」や動画配信で授業やっているのって、家庭に「学校」がとことんまで入り込んでるのとどこがちがうのか? その恐ろしさ、わかっているのか、一部の不登校問題の関係者たち? それを手放しで喜んでどうするねん?

○最後に「まとめ」みたいに書いておきますが…。なんか上に書いたようなことにこだわりはじめて、そこに目を向け始めると、前にも書きましたが「9月入学(始業)」への移行の話とか、「オンライン授業」のための環境整備がどうのとか、そういう話がますます「どうでもよくなってきた」というのが、今の私の実感です。

それこそ、いまは熱心に各教育委員会からテレビで授業配信とか、あるいはネット配信で朝礼をやるとかがんばっていますけど・・・。「知恵のまわる子ども」は、それを上手に「受けたふり」とか「やりすごす方法」とかを、もう見つけているんじゃないですかね? 

それこそ、たとえば片方で「動画配信の授業」が映っているテレビやパソコンをつけっぱなしにしながら、手元ではニンテンドーDSやっていたりするような子や、スマホいじっているような、そんな子どもも居るのではないかと。

「子どもたちに家でそんなことをさせてしまうために、たとえば家庭でのネット学習環境の整備とか、9月入学(始業)への移行とか、まじめにおとなたちが議論しているとしたら、なにか、大きなところでピントがずれているんじゃないですかね?」と、率直に今、私としては思ってしまいますね。

ということで、今日のブログ、ここで終わります。


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