昨日に引き続き、野田正彰さんの本の内容紹介です。今度は別の本。以下の文章は、いわゆる「国旗国歌法」の制定前に広島県で起きた県立高校の校長の自殺に関して、野田さんが書いた文章です。引用部分は青字です。
ちなみにこの校長の自殺は1999年2月に起きた出来事で、この時の教育長が辰野裕一氏。辰野氏は、文部省(当時)の特殊教育課長から広島県教委の教育長に転任してきた方とのことです。
日の丸と君が代の強制がどれだけ教師の精神を制圧し教育を荒廃させてきたか、保護者も、この問題を報道してきたマスコミも、市民も、当の教師とその家族さえも、よく気づいていないように私は思う。
なぜなら、心身症や抑うつ状態になりながらなお、一年のうちに二度、合わせて数分の不快な時間をやりすごせばいい、と思っている人が少なくないからである。あるいはそんな教師たちの症状を聞いても、そこまで酷くないのではないかと否定したり、その人が弱いからだと決めつける人がほとんどである。私が教育学者たちに「君が代神経症」について伝えても、彼らは「確かに国旗・国家での締付けはおこなわれているが、それ以外では教育行政全体は規制緩和、自由化、多様化へ向かっている」と答える。私はその鈍感ぶりにゾッとする。
自分が妥協できるからといって、精神の自由の領域を犯され、「させられる体験」に嵌められる者のすさまじい葛藤を想像できないのは、感情鈍麻である。しかもほとんどの人々が感情鈍麻しているということは、私たちの社会が感情鈍麻しているということではないか。(野田正彰『させられる教育―思考途絶する教師たち―』岩波書店、2002年、37~38ページ)
1990年代の国家主義への傾斜は、辰野氏と文部行政に見られるように、処世として右寄りのカードを激しく切ると保守勢力に評価され、その評価がさらに右傾化を進める関係になっている。(野田正彰『させられる教育―思考途絶する教師たち―』岩波書店、2002年、92ページ)
これを読んで思ったのは、まず92ページにあった「右寄りのカードを激しく切ると保守勢力に評価され、その評価がさらに右傾化を進める関係」という部分が、今の大阪の教育界の動向ととてもよく似ている、ということ。
昨日とりあげた大阪府立和泉高校の民間出身・弁護士の校長なんて、特にそうですよね。いくら以前から友人であったとはいえ、自ら進んで橋下市長・大阪維新の会代表に、自分の勤務する高校での教職員の卒業式での様子をメールで知らせる必要は、何もないはず。にもかかわらず率先してメールで「ご報告」し、橋下市長・大阪維新の会代表に「これが服務規律を徹底するマネジメント」と「おほめの言葉」をいただいている。そういう関係になっていますよね。
もっといえば、大阪維新の会が橋下市長を中心に今、大阪で進めようとしている教育改革それ自体が、中央政界あたりに居る保守系勢力にとって「望ましい」ものに見えているのかもしれない。でなければ、先月27日のこのブログにも書いたように、安倍元首相が松井大阪府知事にエールを送ったり、日本教育再生機構の関係者が大阪府・市の教育基本条例案に注目したりということも、きっと起きなかったのではないか・・・・と思います。
でも、それ以上に深刻な問題として受け止めなければいけないのは、野田さんの書いている37~38ページの部分。
学校の卒業式での国旗・国歌問題について、「たかだか数分のことだし、それくらいは辛抱を・・・・」と思っているような人は、きっとこの社会の中にそれ相応に居るのだと思います。しかし、昨日のこのブログにも書いたように、その数分がある人々にとっては耐え難い精神的な苦痛を与え、心身の不調を訴えるところまで追い詰めることもある。また、野田さんのいう「感情鈍麻」が人々の間に広くいきわたって、その耐え難い状態に追い詰められた人々をさらに孤立させている。そういう構造がこの日本社会のなかにできあがっているのだとしたら・・・・、それはとても恐ろしいことなのではないか。もしかしたら、例の和泉高校の校長や橋下市長らの動きよりも、この構造のほうが怖いものなのではないのか。そのようなことを野田さんの本を読んで感じました。
一応、野田さんの本を読んで感じたことは、とりあえず、昨日・今日の2回のブログでいったん終了します。次は別の本を紹介したいと思います。