ホテルの朝食を済ませ、7:55ホテルを出発。今日は昨日と打って変わって曇り空。8:00に最初の場所である函館朝市に到着。案内者についてて、すぐ近くの朝市商店街に行く。朝早いのにも拘わらず結構な人出があった。小生はあまり興味がないので、配られたカニ味噌汁券で味噌汁を飲んだら、すぐ近くの旧青函連絡船「摩周丸」が展示繋留されている桟橋にいって、それを眺めながら時間を潰した。
8:54朝市を出発、途中、10:19道の駅「しりうち」に寄ってトイレ休憩をし、10:28再出発。11:14松前公園に到着。このころは熱帯性低気圧に変わった台風6号の影響でか、すでに小雨が降り出していた。およそ2時間の時間が取られ、松前公園(松前城跡)の見学と配られた弁当の昼食を摂ることとなった。
松前城は、明治8年(1875)、新政府の北海道開拓使は本丸御殿、本丸御門、天守を残してその他の城郭の施設を解体した、その後、天守は、昭和24年(1949)城跡にあった松前町役場からの出火が飛び火して焼失。昭和36年(1961)、鉄筋コンクリードで松前城資料館として外観復元された。
360円を支払って、外観復元された天守の松前城資料館に入って内部の展示物を見学。それから外に出て、雨のショボショボ降る中を傘をさして散策。石垣は、これまで見たことのないようにすべての石垣が、見事な切込み接ぎであった。材質は加工のしやすいグリーンタフ(緑色凝灰岩)である。また、二の丸の西、本丸御門左の桜林の中には、本丸御殿玄関が移築されていた。慶長11年(1606)完成した当時福山館と称した松前城は、寛永14年(1637)、城中からの出火により多くの建物を焼失、同16年(1639)に修築された。その際、表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている、表御殿玄関はその時のもののようで、今では北海道指定有形文化財に指定されている。
二の丸と本丸の間にある本丸御門は慶長11年(1606)と嘉永2年(1849)築城の旧城郭を取り壊し新しい城郭を建設した際の御門(安政元年(1854))である(昭和24年の火災では、御門の東塀は焼失した)。
園内には250種、1万本の桜があるとのことであるが、すでに花の峠はすっかり超えて、「南殿」「ウコン桜」「普賢象」の花が残っているだけのようだった。
(上の写真は左から、馬坂門辺りから搦め手門付近を見る、搦め手門一の門を通して奥に天守を望む、二の丸から左に本丸御門と右に天守を望む)
(上の写真は左から、内濠北側から天守を望む、普賢象さくら、三の丸にある6番と7番台場の間にある天神坂門外から天守方面を望む)
弁当を持って歩いたが、食べる場所が見当たらずそのままバスに持ち帰り、途中でコンビニで買ったお茶を飲みながら食べた。
13:06、松前公園駐車場を出発した。車内で思いがけず、添乗員から江差での見学先希望を取るとのことだった。「江差追分会館」江差追分や歴史の見学と、少し離れた岩壁に実物大復元された「開陽丸」の見学だった。見学に必要な時間に限りがあるので、両方を見ることはできないという。小生は箱館戦争のとき江差沖で座礁沈没した「開陽丸」を見ることにした。先に江差追分会館見学組を下ろし、開陽丸組はバスで鴎島傍の展示場所に14:21着いた。450円の入艦料を払って艦内に入り見学した。
(写真は左から、復元開陽丸外観、復元開陽丸上甲板)
15:14、バスで開陽丸を出て、江差追分会館に寄りそこでの見学者を拾い全員そろって出発した。そこで、バスを誘導していたガイドが自家用車に接触され転んだという事故が起こった。ガイドは何ともないということで、そのままバスは出発した。
16:35、落部ICから高速に載り、18:01虻田洞爺湖ICで降り、18:07わかさいも本舗という店でバスは停車。わかさいもなる菓子を土産に買えということらしかった。娘用に6個入り648円1箱を買った。18:23、そこを出て、本日の宿である「洞爺サンパレス」に18:30到着した。
ホテル内1Fのパレシオというレストランでビュッフェスタイルの夕食を摂った。20:45から15分間ほど行われる湖上花火は、当初音だけは聞こえたが花火の姿は見えなかった。しばらくすると左手から少しずつみえるようになり、最期は目の前で終わった。室内から見ていたので、窓ガラスに部屋の中が映り込んでしまうので、部屋の電灯は全部消し、カメラを窓ガラスにできるだけ近づけて20枚ほどを撮影した。
22時過ぎに地下1階の大浴場で温泉に浸かって24時頃に就寝。
8:54朝市を出発、途中、10:19道の駅「しりうち」に寄ってトイレ休憩をし、10:28再出発。11:14松前公園に到着。このころは熱帯性低気圧に変わった台風6号の影響でか、すでに小雨が降り出していた。およそ2時間の時間が取られ、松前公園(松前城跡)の見学と配られた弁当の昼食を摂ることとなった。
松前城は、明治8年(1875)、新政府の北海道開拓使は本丸御殿、本丸御門、天守を残してその他の城郭の施設を解体した、その後、天守は、昭和24年(1949)城跡にあった松前町役場からの出火が飛び火して焼失。昭和36年(1961)、鉄筋コンクリードで松前城資料館として外観復元された。
360円を支払って、外観復元された天守の松前城資料館に入って内部の展示物を見学。それから外に出て、雨のショボショボ降る中を傘をさして散策。石垣は、これまで見たことのないようにすべての石垣が、見事な切込み接ぎであった。材質は加工のしやすいグリーンタフ(緑色凝灰岩)である。また、二の丸の西、本丸御門左の桜林の中には、本丸御殿玄関が移築されていた。慶長11年(1606)完成した当時福山館と称した松前城は、寛永14年(1637)、城中からの出火により多くの建物を焼失、同16年(1639)に修築された。その際、表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている、表御殿玄関はその時のもののようで、今では北海道指定有形文化財に指定されている。
二の丸と本丸の間にある本丸御門は慶長11年(1606)と嘉永2年(1849)築城の旧城郭を取り壊し新しい城郭を建設した際の御門(安政元年(1854))である(昭和24年の火災では、御門の東塀は焼失した)。
園内には250種、1万本の桜があるとのことであるが、すでに花の峠はすっかり超えて、「南殿」「ウコン桜」「普賢象」の花が残っているだけのようだった。
(上の写真は左から、馬坂門辺りから搦め手門付近を見る、搦め手門一の門を通して奥に天守を望む、二の丸から左に本丸御門と右に天守を望む)
(上の写真は左から、内濠北側から天守を望む、普賢象さくら、三の丸にある6番と7番台場の間にある天神坂門外から天守方面を望む)
弁当を持って歩いたが、食べる場所が見当たらずそのままバスに持ち帰り、途中でコンビニで買ったお茶を飲みながら食べた。
13:06、松前公園駐車場を出発した。車内で思いがけず、添乗員から江差での見学先希望を取るとのことだった。「江差追分会館」江差追分や歴史の見学と、少し離れた岩壁に実物大復元された「開陽丸」の見学だった。見学に必要な時間に限りがあるので、両方を見ることはできないという。小生は箱館戦争のとき江差沖で座礁沈没した「開陽丸」を見ることにした。先に江差追分会館見学組を下ろし、開陽丸組はバスで鴎島傍の展示場所に14:21着いた。450円の入艦料を払って艦内に入り見学した。
(写真は左から、復元開陽丸外観、復元開陽丸上甲板)
15:14、バスで開陽丸を出て、江差追分会館に寄りそこでの見学者を拾い全員そろって出発した。そこで、バスを誘導していたガイドが自家用車に接触され転んだという事故が起こった。ガイドは何ともないということで、そのままバスは出発した。
16:35、落部ICから高速に載り、18:01虻田洞爺湖ICで降り、18:07わかさいも本舗という店でバスは停車。わかさいもなる菓子を土産に買えということらしかった。娘用に6個入り648円1箱を買った。18:23、そこを出て、本日の宿である「洞爺サンパレス」に18:30到着した。
ホテル内1Fのパレシオというレストランでビュッフェスタイルの夕食を摂った。20:45から15分間ほど行われる湖上花火は、当初音だけは聞こえたが花火の姿は見えなかった。しばらくすると左手から少しずつみえるようになり、最期は目の前で終わった。室内から見ていたので、窓ガラスに部屋の中が映り込んでしまうので、部屋の電灯は全部消し、カメラを窓ガラスにできるだけ近づけて20枚ほどを撮影した。
22時過ぎに地下1階の大浴場で温泉に浸かって24時頃に就寝。