つれづれ日記

~認知症に備えて~
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平成29年度(第34回)水戸学講座(第二講)

2017-09-17 13:58:37 | 学習・講座受講
 前回の一講に続いて今日は第二講を受講した。9時半過ぎに家を出た時はポツ雨だったが、12時過ぎて帰るころは小雨になっていた。本日11時過ぎに鹿児島県南九州市に上陸した台風18号とそれから伸びた前線の影響のようだ。明日一ぱいまで当地への影響は続きそうだ。

 第二講は「大政奉還上表と維新前夜の混迷」と題し、植草学園短期大学名誉教授の但野正弘氏によるものだった。


 最後の将軍、徳川慶喜公(30歳)は、慶応2年(1866)7/20大坂城内で逝去した14代将軍家茂を接いで、8/20徳川宗家を相続、その際における慶喜公の談話があり、「・・遂に宗家を相続することとなれり。されども行ったん相続するや、老中等は又将軍職をも受けられるべしと強請せるのみならず、外国との関係などもありて、結局之をも諾せざるを得ざるに至れり。・・・予が政権奉還の志を有せしは実に此頃よりの事にて、東照公は日本国の為に、幕府を開きて将軍職に就かれたるが、予は日本国の為に幕府を葬るの任に当たるべしと覚悟を定めたるなり。・・」
 慶応3年(1867)10月上旬頃、慶喜公は政権返上の決意をする。「予が政権返上の意を決したるは早くよりの事なれど、さりとて如何にして王政復古の実を挙ぐべきかということは成案なかりき。・・・松平容堂の建白出づるに及び、其中に上院・下院の制を設くべしとあるを見て、是は如何にも良き考なり、上院に公卿・諸大名、下院に諸藩士を選補して、公論によりて事を行はゞ、王政復古の実を挙ぐるを得べしと思ひ、此に勇気と自信を得て、遂に之を断行するに至りたり。・・・」

  慶応3年(1867)10/14将軍慶喜公は「大政奉還の上表文」(正式名は「政権並びに位記返上の上表」)を朝廷に奉り、10/15朝廷、大政奉還を聴許。

 徳川水戸家には当初より、「国の主は天子様、徳川宗家は親戚筆頭である。一旦両者に干戈ある時は、天子様にお味方せよ」の家訓というべきものがある。