海上撮影家が見た上海2

上海で撮影活動をしている海原修平のBlog。「海上」とは上海の逆で、新しい上海という意味。更新は不定期。

2004年の上海の画像を発掘その2

2024-03-30 | 遠い記憶 現代のレンズ

 

虹口区は日本人が多く住んでいた地域 ここは魯迅公園から近い 2004年撮影

 

魯迅が住んでいた場所の隣の小路 山陰路2004年撮影

 

上海恋香の映画ロケで使った場所 山陰路2004年撮影

 

ダンスの先生 魯迅公園

 

前世紀の後半に私が日本から上海に定期的に通っていた頃に、漂陽路の小さなホテルを定宿として使っていたが、今は老人ケアホテルに。このホテルは私の親しい上海人の飯屋から歩いて1分の場所で、その店のコネで超格安価格で泊まれた。そして、その飯屋の家族と一緒に毎晩夕飯を食っていた。租界時代のこの虹口区付近は、魯迅や金子光晴が住み内山書店もあり日本関係の文化人が多く住んでいた地域。また、日本の陸戦隊本部や上海神社(戦後取り壊し)もあったので、租界時代は日本村とも言われていた。

 

山陰路 2000年撮影 Noblex135U

 

山陰路 2000年撮影 Noblex135U

 

山陰路 2000年撮影 TX-1 45mm f4

 

このイスラム建築は一時期に知恩院として使われていた 多倫路 2007年撮影 ピンホールカメラ

 

多倫路 2007年 ピンホールカメラ

 

十数年前のある日。小学生の頃にこの付近に住んでいたという日本人が上海に来て、もう一度思い出の場所を探して見てみたいという事で、その場所を一緒に探した事があった。起点は魯迅公園と内山書店の跡地。彼女が住んでいた場所は四川路ですぐに見つかったが、時々通っていた日本海軍の将校専用ホテルが見つからず山陰路の路地を隅々まで歩いた。彼女が子供の頃の記憶なので曖昧な部分も多いが、この付近の建物のほとんどが当時のまま残っていたので過去の記憶が徐々に蘇って来たようで、彼女が突然この奥かも知れないと言い出し向かった先は、この路地の一番奥の行き止まりの場所。人間の記憶というのは、視覚や匂いなどの五感をきっかけに脳内の奥から突然蘇るという事を聞いた事があるが、今回は正にそれだった。

辿り着いた建物の入口は中が見えないほどのコンクリートの高い塀があり、小さな出入り口のドアを叩くと中から人が出てきた。過去の事情を話すと私達3人を中に入れてくれ、歓迎してくれた。中庭部分と建物を見た瞬間に、日本人の彼女の目が輝き過去の記憶が一気に蘇ったようだった。当時招き入れてくれた親切な上海人女性はお茶まで出してくれ、話を聞くと定年退職(女性は50歳が定年)したのでこの家の一室を買い数年前から住んでいるそうだ。この日本軍の将校専用プチホテルだった家は、日本人が設計し建てた家なので、丈夫で作りも良く安心して住めるのでとても良い買い物をしたと言っていた。上海の古い建物の内部を見る時に、特徴的なのは階段の手すりを支える1本目の柱のトップだ。それを見ると、確かに菊の紋が柱の頭に刻まれていたので、ここが海軍の将校専用のホテルだと確信した。

☆この付近は日本海軍陸戦隊だったビルも現在残っていたり、終戦後に取り壊されたが上海神社もあったそうだ。また、金子光晴が住んでいた家が今も残っているが、今は地元の住居に。現在の上海で日本人街だった痕跡が残っているのは、この魯迅公園付近が一番多い。

 

コメント
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