海上撮影家が見た上海2

上海で撮影活動をしている海原修平のBlog。「海上」とは上海の逆で、新しい上海という意味。更新は不定期。

曇りの日は墨絵の世界

2024-05-16 | 遠い記憶 現代のレンズ

世田谷の砧公園で

 

こんな風景に出会うと、すっきり晴れた空より曇りの日の方が私の好み。Raw現像からグリーンフィルターを選んで現像し、最後にコントラスト調整。デジタルカメラのモノクロ専用機が良いという人もいるが、私は一生買わないデジカメ。

過去の墨絵の世界→コレ

☆海外で歯の治療を受けたが、その治療費の一部は日本の健康保険に入っていれば後で返還される。その手続きに役所に行ったが、役所側が慣れてないのか、その場で解決出来ず。本日16日に電話で詳しい指示が来て、再度役所に行く事に。国はマイナンバーカード登録を急いているようだが、役所の方がデジタル社会に追いついていないのはお笑いだよね。世界で一番労働時間の長いのが日本なのがよくわかる。

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2004年の上海の画像を発掘その2

2024-03-30 | 遠い記憶 現代のレンズ

 

虹口区は日本人が多く住んでいた地域 ここは魯迅公園から近い 2004年撮影

 

魯迅が住んでいた場所の隣の小路 山陰路2004年撮影

 

上海恋香の映画ロケで使った場所 山陰路2004年撮影

 

ダンスの先生 魯迅公園

 

前世紀の後半に私が日本から上海に定期的に通っていた頃に、漂陽路の小さなホテルを定宿として使っていたが、今は老人ケアホテルに。このホテルは私の親しい上海人の飯屋から歩いて1分の場所で、その店のコネで超格安価格で泊まれた。そして、その飯屋の家族と一緒に毎晩夕飯を食っていた。租界時代のこの虹口区付近は、魯迅や金子光晴が住み内山書店もあり日本関係の文化人が多く住んでいた地域。また、日本の陸戦隊本部や上海神社(戦後取り壊し)もあったので、租界時代は日本村とも言われていた。

 

山陰路 2000年撮影 Noblex135U

 

山陰路 2000年撮影 Noblex135U

 

山陰路 2000年撮影 TX-1 45mm f4

 

このイスラム建築は一時期に知恩院として使われていた 多倫路 2007年撮影 ピンホールカメラ

 

多倫路 2007年 ピンホールカメラ

 

十数年前のある日。小学生の頃にこの付近に住んでいたという日本人が上海に来て、もう一度思い出の場所を探して見てみたいという事で、その場所を一緒に探した事があった。起点は魯迅公園と内山書店の跡地。彼女が住んでいた場所は四川路ですぐに見つかったが、時々通っていた日本海軍の将校専用ホテルが見つからず山陰路の路地を隅々まで歩いた。彼女が子供の頃の記憶なので曖昧な部分も多いが、この付近の建物のほとんどが当時のまま残っていたので過去の記憶が徐々に蘇って来たようで、彼女が突然この奥かも知れないと言い出し向かった先は、この路地の一番奥の行き止まりの場所。人間の記憶というのは、視覚や匂いなどの五感をきっかけに脳内の奥から突然蘇るという事を聞いた事があるが、今回は正にそれだった。

辿り着いた建物の入口は中が見えないほどのコンクリートの高い塀があり、小さな出入り口のドアを叩くと中から人が出てきた。過去の事情を話すと私達3人を中に入れてくれ、歓迎してくれた。中庭部分と建物を見た瞬間に、日本人の彼女の目が輝き過去の記憶が一気に蘇ったようだった。当時招き入れてくれた親切な上海人女性はお茶まで出してくれ、話を聞くと定年退職(女性は50歳が定年)したのでこの家の一室を買い数年前から住んでいるそうだ。この日本軍の将校専用プチホテルだった家は、日本人が設計し建てた家なので、丈夫で作りも良く安心して住めるのでとても良い買い物をしたと言っていた。上海の古い建物の内部を見る時に、特徴的なのは階段の手すりを支える1本目の柱のトップだ。それを見ると、確かに菊の紋が柱の頭に刻まれていたので、ここが海軍の将校専用のホテルだと確信した。

☆この付近は日本海軍陸戦隊だったビルも現在残っていたり、終戦後に取り壊されたが上海神社もあったそうだ。また、金子光晴が住んでいた家が今も残っているが、今は地元の住居に。現在の上海で日本人街だった痕跡が残っているのは、この魯迅公園付近が一番多い。

 

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2004年上海の画像を発掘その1

2024-03-28 | 遠い記憶 現代のレンズ

高給ブランド街の南京西路(2004年)

 

 

閔行区なので上海郊外1㎡5280元の時代(当時の為替で約7万円ほど)

 

 

不動産フェア上海展覧中心(2004年)

 

以前もアップした画像から 

HDを整理していて、20年前2004年の画像を発掘。この頃は、全てが右肩上がりの時代で未来は明る過ぎるぜと言っていた序曲時代。この頃の南京西路は、今の淮海路よりもブランド街だった。今世紀に入ってから不動産のイベントは、毎回満員電車並みの混雑だったのを思い出す。この住宅展示会は、上海展覧中心(静安寺近くのロシア建築)での展示会で、この日に販売するマンションの場所は上海の郊外の閔行区なので当時は比較的安い価格で買える不動産だった。当時の値段を見ると1平方メートル5280元からと書かれているので、20年前のレートだと約7万円ほどだったようだ。今、この時代の中古物件は広さにもよるが日本円で軽く億は超える。"中国では"と一括りに出来ないのは、あまりにも国土が広いから。なので、"上海では"と置き換えて話をしなければならない。今回のブログは、20年前の上海での話。

☆私が上海で一番長く住んでいた場所は、新華路だった。ここは旧フランス疎開ではないが、疎開時代当時は各国の大使館スタッフや地元の名士が住んでいた場所で、ヘンリームーアの2作品が路にさりげなく置かれプラタナスの並木路が美しく環境の良い住みやすい場所だった。この付近で小説家J・G・バラードは生まれ、上海で名建築を残したラズロ・ヒューディックの私邸などもあり、住むには最高の環境だった。このアパートは1990年に建てられ、約70平米の広さで当時は日本円で約200万円ほどで買えたそうだ。で、4年前に大家が売った値段は約7000万円。

☆上海南京西路の"梅龍鎮伊勢丹"が6月末で閉店というニュースが。これも時代の流れだな。残る日系は大丸と高島屋。

☆今の上海郊外の松江には昨年の2月21日に仙霞路から引っ越してきたが、来月に引越し予定。契約は今年の11月までだが、違約金を払って来月に出て行く事にした。私が今現在住むエリアは、昔は畑だったような場所に出来た新興住宅地なので、外観のみナンチャッテイタリア風の建物の一角。つまり文化の積み重ねの無い無機質な街。ちょっと散歩に出て街を散策したいという気持ちも起きないし、ここに居ても上海の時代の流れが読めない。という事で、上海の孤島のようなエリアなのだ。そんな理由もあり、最低限の荷物を選び家具も含め処分中。昨年の引っ越し時に必要のない物は処分したが、さらにスリムにしている。20年以上も上海に住んでいるので物が増えるのは当たり前だが、本当に必要な物って意外と少ないものだという事がよく分かる。少しずつ私の住む5Fのフロアーにあるゴミ捨て場に捨てる物を持って行っているが、ここはゴミ分別が上海中心部ほど厳しくないので、時間に関係なくざっくりと生ゴミとその他に仕分ければ良い。処分するアンティーク家具などの一部は元アシスタントの元へ。家電などは、外に置いておけば誰かが勝手に持って行ってくれるので楽。

 

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アントニー・ゴームリー作品 反映/思索

2023-10-15 | 遠い記憶 現代のレンズ

アントニー・ゴームリー(東京国立近代美術館)

 

アントニー・ゴームリーの作品(反映/思索)が佇んでいるのは、東京国立近代美術館。ここの展望室から皇居の堀が見えるので、展覧会の後に必ず立ち寄る場所。東京は小さな写真ギャラリーが無数にあるが、最近は写真より他のアート作品を見に行く事の方が多くなっている。で、上海はというと、写真のギャラリーがほとんど無いので上海で写真を見る機会は稀で、上海は圧倒的に現代アートが主流の街。

前世紀末の上海はカメラを買う事が大変だった時代だったので、写真作家も育ってなかった。これは、昔の日本と同じ。そんな時代に海外で写真を学び、上海に戻って広告などの撮影で稼いだ職業写真家もすでに引退してしまった人がほとんど。なので、今現場で活躍している職業写真家は、その第二世代とも言える。その間、フィルムからデジタルに変わり、さらに求められているのが写真から動画に変わったので、時代に追従出来ない人達は淘汰され、そしてコロナ問題で仕事も激減し、今は生き残りをかけている人達も多いと聞いている。

☆日本は相変わらずジャニーズ問題で世間は騒がしいようだね。文春は20年以上も前にこの問題を記事にしていたが、追随するマスコミは皆無だった。そして、ジャニー喜多川の問題が海外から指摘され公になり、今まで沈黙を貫いていたマスコミ各社は鬼の首をとったような大騒ぎ。どこのマスコミも、この件を知っていたクセにね。しかも、週刊誌ならまだしも新聞社までこの件に触れて来なかったというのは異常。そんなもんよ、マスコミは。編集者やライターは記事にしたいけど、その上のデスクや編集長とその上の経営陣がすべて権限を持っているので記事に出来ない事例もあるからね。特に今のマスコミは広告収入が命。地方新聞も含め、地元の広告主に対して悪い事を書けないからね。それにしても、あのジャニーズの記者会見は醜かったな。

☆イスラエル退避の韓国機に日本人51人が搭乗しているニュースが流れてきたが、この51人の日本人は非常に正しい判断と同時に韓国政府に感謝。で、日本政府はというと、ドバイまで避難させ一人3万円の費用がかかるというニュースも入ってきた。マスコミ海外組の裏鉄則だが、海外で最悪の事態が発生した場合は、日本大使館ではなくアメリカ大使館かフランス大使館を目指せと教えられた事を思い出す。

 

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茶摘み専門のプロ

2023-10-13 | 遠い記憶 現代のレンズ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

過去の画像から

ここは潮州「鳳凰山」の山頂の茶畑。朝の6時に茶摘み専門のプロ(期間限定で雇われる人達)が集まり、これから茶畑に向かう広場の前。初めて会う人を撮る時は、相手が自分を認めてくれているかどうかで結果は全く違うので、最初にターゲットを複数決めて軽くスナップ撮影。カメラを向けた時の相手の反応を見て、今日一日追う人を決めるのだ。という事で、私にタバコを差し出し微笑んでくれた男を中心に追う事にした。こちらでは、相手にタバコを一本差し出してくれるという意味は、信頼の証でもあるのだ。この茶摘み専門の人達の男女比は圧倒的に女性の方が高いのだが、彼女らはシャイでカメラを向けると嫌がるので深追いしない事に。

この茶畑の会社は一年に一度しか茶葉を収穫しないので4月中旬から5月中旬が勝負で、それを過ぎると茶葉が成長し過ぎて葉が硬くなり高品質の茶は作れないので一年で一番忙しい時期。という事で、茶摘み専門のプロは複数の茶会社と契約していて、茶畑を渡り歩くのだ。この山の山頂は年に一度しか収穫できないが、麓の温暖な地域では最低でも年に2回は茶を収穫出来るので、茶摘みのプロは春と秋が稼ぎ時なのだ。この日の翌日も撮影を予定していたが、翌日は雨という事で茶摘みは無しになり撮影出来たのはこの日一日のみ。

この茶畑で使った機材は、フジのミラーレスカメラ3台。当時使ったカメラはX-Pro1とT1がメインでE-1も使ったが、X-Pro1のAFが不安定で時々ピントを外す事が多かった。特にX-Pro1のレンジファインダーを使った時は、ピントが合った時に表示される緑のマークは当てにならなかった。画像が小さいのでわからないが、トップの画像は少し後ピン。という事で、今使っているX-Pro2と100Fで人を近距離で撮る時はレンジファインダーは信用してない。

人を撮る時に35mmフルフォーマットやAPS-Cの3x2は、私には使いにくいフォーマットサイズ。それは、今回の画像のように標準レンズ(XF35mm f1.4)を使い縦位置でウエストショットを撮る時に左右が窮屈なフレームになるからだ。そんな事もあり、人を撮る時に理想的なフォーマットはGFXの3x4や6x7だが、私にとってはローライフレックスやハッセルブラッドに慣れ親しんだ1x1がベストなフォーマットサイズだ。

 

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