青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

続:憲法九条

2008年02月03日 | 短歌に政治や社会

憲法、および憲法九条において自衛隊の合憲、違憲論議はなされているが、えてしいてなされていないように思われるのが「武器、兵器、弾薬の製造販売」等の合憲違憲論議である。

ちなみに、サイト上には次のような記事が出ていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
> あなたは「憲法9条」について書かれたblogを紹介しただけで
>「憲法9条」についての意見が全部書かれてないから見えないし(-.-;

> ちなみに僕は
> 「憲法9条は素晴らしいが、相手が攻めてきたらどうするの?」って所ですな

こう言われると「憲法九条」についての私の意見、そして「相手が攻めてきたらどうするか」についても述べなければならないようですね。しかしこのことにお答えするには一般論とは異なったことで応えることになりますので、躊躇しています。
でもいいでしょう、貴方方がどう受け止めるかは、貴方方次第ですからね。
私の思いでは、「憲法九条」も「相手が攻めてきたらどうするか」ということも、そういうことは普通の思いでは解決できないだろうと思っています。ではどうすれば解決できるかというと、「宗教的」による解決です。そのことをこれからお話しするわけですが、その前に私は仏教については少々知っていますが、キリスト教イスラム教については余り知りませんのであしからず。

アメリカやイギリス、フランスなどはキリスト教を国教としているようですね。このキリスト教の聖書には、キリスト教をよく知らない人にでもよく知られている言葉に「汝の敵を愛せよ」というのと、「汝右の頬を打たれたなら、左の頬もうたれよ」というのがありますね。
こ言葉の意味は言うまでもなくお分かりになられることと思いますが、「相手に何かされても仕返しとか報復をすべきではない」ということでしょう。
ところがこういう聖書にあるキリスト教を信仰している人々が、ニューヨーク中枢同時テロ攻撃などを受けたからといって、その仕返しや報復としてイラク攻撃を始めましたね。それがいまだに続いています。言ってみれば「信念と行為」とが矛盾しているわけです。
我国においても武士の美徳として「仇討ち」がありました。打たれやられたから、仕返しし報復する。それはまた打たれたからやられたからとなり、血脈が絶たれるまで打ち続けられることとなりました。
こういう悲惨さは現在でもあります。中国、韓国、北朝鮮などが問題にしている歴史問題や慰安婦問題など。そして我国から見れば原爆投下や拉致問題に空襲への憤り。
私達は「やられたらやり返す」というよりは、「やられる前にやり返すべき用意をしておく」べきなのでしょうか。

ここで皆さんに一つ設問をします。
今日原油高騰等で、生活が苦しくなっていますね。ことに寒冷地の一人暮らしの高齢者は、できるだけストーブを点けずにしのいでいるといわれています。この人達は、生活防衛のために、「実力行使」に出るべきなのでしょうか?
自衛や防衛が許されるなら、こういう行為も許されることになるとも思いますが、しかしこれは犯罪に直結してしまいますね。
しかし国家の国防とか自衛、防衛は犯罪に直結していないという、こういう論理になっています。
そんな中、寒さにじっと耐える一人暮らしの老人たちに、何の差し伸べる手もないのが国策なんですね。

最後にイスラム教の教義、コーランの教えとかは「アラーの道のために戦え」と言うことなのだそうです。しかし私から見ると、この本意が理解されていないようです。
と言うのは、「戦う」相手を他人にしてしまっている。そのことによって、相手を自分思い通りにしようとし、都合よくいかない場合は攻撃する、そう受け止められています。
だが本来は「戦う」相手は「自分自身」を意味していると思います。「アラーの僕」としてあるべき自分を確立させる、そのための戦いという意味だと思います。

いうなれば、宗教、信仰の取り違えをしていると言えるでしょうね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上のことについて思えば、現在の自衛隊のありようは「地域再生部隊、森林再生部隊、海洋再生部隊」というような、武器兵器弾薬を持たない全くの平和部隊であるべきだろう。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする