幼児割りばし事故訴訟というものに、判決が出された。診断した医師の過失を認めず、原告の訴えは退けられたが控訴するという。
この訴訟を覚めた目で見ると、感情的になっているばかりで論理性を持っていないといわなければならない。
なぜなら、医師や医療機関に可能性とか想定とか予見を求めるならば、なぜ親としてわが子が割り箸を口にくわえて飛び回っていた場合、転ぶとどうなるか予見し、想定し、ただではすまなくなるという可能性を持たなかったかを問わなければならないからだ。ここに論理的に矛盾している。
しかしここで言いたいことは、そういうことではない。医療訴訟の恐ろしさを、言いたいのである。
医療訴訟されることによって医師や医療機関は、訴訟を恐れて診療をとめ始めた。既に手術を断る病院も、出てきている。このために、助かる命も、助からない状態になりつつある。
だから、もし私や私の家族が病気や怪我で診療や手術を受けようとして断られたとしたら、それは医療訴訟している人達のためであるとして損害賠償等を請求する権利を有することになるといえる。これは論理的にも理論的にも、感情的ではない正当性をもっていえるだろう。
これは又、既に訴訟している人達に対してだけでなく、これから訴訟しようとしている人達に対してもいえることであり、医療訴訟は止まるところを知らなくなる。
しかし私は、家族はともかく、私はこういうことがあっても訴訟などはしたくは無い。それはこれまでこの「青い鳥の世界へ」の中で述べてきたように、それは「報復、復習」行為だからである。憲法九条に「戦力をもたない」と記されながら曲解して自衛隊を保有するということと同じみたいなものである。
それはさておくことにして、こうした場合私はどうするかというと言うならば、神の前にぬかずき、仏の前にぬかずき現実を認め受け入れるばかりである。
それは、同じ地上に生きる人として、貴方方の思いの痛みを知るからである。
そしてそれは又、同じこの世に生きる生命あるものとしてもーーーーーーーーーーーーー。
この訴訟を覚めた目で見ると、感情的になっているばかりで論理性を持っていないといわなければならない。
なぜなら、医師や医療機関に可能性とか想定とか予見を求めるならば、なぜ親としてわが子が割り箸を口にくわえて飛び回っていた場合、転ぶとどうなるか予見し、想定し、ただではすまなくなるという可能性を持たなかったかを問わなければならないからだ。ここに論理的に矛盾している。
しかしここで言いたいことは、そういうことではない。医療訴訟の恐ろしさを、言いたいのである。
医療訴訟されることによって医師や医療機関は、訴訟を恐れて診療をとめ始めた。既に手術を断る病院も、出てきている。このために、助かる命も、助からない状態になりつつある。
だから、もし私や私の家族が病気や怪我で診療や手術を受けようとして断られたとしたら、それは医療訴訟している人達のためであるとして損害賠償等を請求する権利を有することになるといえる。これは論理的にも理論的にも、感情的ではない正当性をもっていえるだろう。
これは又、既に訴訟している人達に対してだけでなく、これから訴訟しようとしている人達に対してもいえることであり、医療訴訟は止まるところを知らなくなる。
しかし私は、家族はともかく、私はこういうことがあっても訴訟などはしたくは無い。それはこれまでこの「青い鳥の世界へ」の中で述べてきたように、それは「報復、復習」行為だからである。憲法九条に「戦力をもたない」と記されながら曲解して自衛隊を保有するということと同じみたいなものである。
それはさておくことにして、こうした場合私はどうするかというと言うならば、神の前にぬかずき、仏の前にぬかずき現実を認め受け入れるばかりである。
それは、同じ地上に生きる人として、貴方方の思いの痛みを知るからである。
そしてそれは又、同じこの世に生きる生命あるものとしてもーーーーーーーーーーーーー。