財務省、森友に特例重ねる=安倍首相「答弁との整合性検証」―検査院報告受け
私の家では、以前は新聞を取っていたが、現在は取っていない。私以外には読まず、見てもテレビ欄だけ。
その私が1月半以上入院したために、購読料がもったいないと家計を預かる娘が辞めてしまった。
正直寂しいが、しかし私はPCで情報を得られるので余り堪えないが、それでもディサービスに通所しているので、センターに着くとすぐにセンターが取っている新聞に目を通している。
今日の新聞の1面下段には、本の広告が載っており、「孤独のススメ(五木 寛之 著書」というタイトルの本が出ていた。
私はこの本を読んだことはないけれども、だがこの「孤独のススメ」としいうタイトルから、本の内容が想像してしまえる。
「孤独」という言葉からは、辛く苦しく寂しく悲しく侘びしさを感じがちになる。しかしながらこの孤独の中に身を投じ、辛く苦しく寂しく悲しく侘びしさを感じながらたゆまず生きていく姿には、独立感、自主感、自律性が確立されていく。
それは、人間は多くの人に取り囲まれていはいても、個体としてあるがために、その個体として一人立ちして生きていかなければならない。
それは「孤独に生きる」ことでもある。この「孤独」の辛さ苦しさの中から「死にたい」という人がいるが、それは先にも述べたように「「独立感、自主感、自律性を身に着けるために越えなければならない壁として横たわっている。
そしてこの「孤独の壁」を超えた時、「孤高の頂」に達していく。
今の巷には、こうして「孤高」を目指す人が見られなくなった。いられるにはいられるが、これらの人々は自惚れを持たないために、世の片隅に生きるのを好まれている。
しかし世の片隅に居て、孤独にして孤高に生きるのは、楽しい。
周りの者に頼らず、その頼ること自体が「恐ろしい」ためだ。一人になることが恐ろしいから、群れないではいられない。そしてその群れの中で、自惚れていたいという弱さがある。
残念ながら、こうした孤高に生きることを教えることはできない。教育ではないからだ。
故に教えてくれる人はいない。自分の手で、見つけていかなければならない。
それが「孤独のススメ」であり、そして「孤高の頂」に辿り着く。