防衛大綱、大胆に見直し=敵基地攻撃能力に含み―安倍首相
私たちは、誰とも「繋がり」をもって生きたいと思っている。
繋がりを持ち合うことによって、お互いが助け合い、理解し合い、そうした繋がりをより大きくしていこうとしている。
しかし政権は、こうした事を嫌っているようだ。
すぐに相手と対立しようとし、敵視しようとしている。
米国とは仲良くしていくつもりらしいが、それは金銭が絡まり、権力欲が絡まっている。
米国の国務長官は、大統領の言葉とは一線を画して「北朝鮮と前提なく対話を」と述べて居るなど、対立や敵視一片にはなっていない。
だが我が国の方は、「圧力や制裁」を加えると一辺倒になっており、一人として対話を行い繋がりを持とうとするものがいない。
積極的平和主義と言い、専守防衛といっても、それは舌先でちょっと言葉で転がしているだけのもの。こういうことをしてやれば、すくに恐れ入って拉致被害者の帰国をさせてくれると思っている。
こういった繋がりがなくなっているため、家庭でも家族同士でも、また社会でも圧力や制裁を加えようとしている。
【税制改正】所得、たばこ、観光…個人増税ずらり 全体で2800億円の増収に
新聞に、田中裕子法政大教授の論考が出ていた。
これを読んでみると、なんとまあ安倍首相がのめりこんでいる憲法改正というものは、せっせと米国製武器を購入するための布石であると説いている。
そうして自衛隊を憲法に記入し、武器兵器を使用することにより、米゛ンとともに我が国の安全保障に使用していこうという訳で、そのためにせっせと働き景気を向上させて納税させ、その税金で武器を購入して米国経済に貢献していくということになる。
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法政大学 田中優子教授
「江戸時代から考える日本」 ・・・ 田中優子・法政大学総長
日本の過去を研究するには、二つの姿勢が必要です。ひとつは、その時代の中に身を置き、その時代の生活や文化を、その時代の価値観に沿って丁寧に検証することです。しかしそれだけでは足りません。研究者は同時に、この現代世界に暮らす市民です。市民として自分自身は、今の状況をどう考えるのか、何を主張するのか、どのような責任をとろうとするのか、を考えるべき存在でもあります。
私は近世文学、つまり江戸時代の文学研究からはじまって、江戸時代のさまざまな現象に出会ってきました。そのなかで現代社会について、多くのことを考えさせられました。その中から、現代の私たちが考え直すべきではないか、と思う大事な事柄を5つお話しします。
第一には、人の、自然に対する姿勢です。日本は災害の多い国です。しかし同時に、自然の恵みのなかで生き、そのなかで経済発展をしている国です。江戸時代の日本人は、自然のもっている「脅威」と「恵み」という二つの側面を受け止め、それを「経世済民」という価値観の柱にしたのです。
「経世済民」は「経済」のもとになった言葉です。この世を営むことによってすべての人を救済することが、「経済」の意味だったのです。その経済発展の源には「自然」がありました。燃料や住まいの材料は山や森から、食べ物は田畑と海から、衣類は麻や綿花や桑の栽培と、そして昆虫から引き出し、人の生活の中に入れていきました。自然を生きる糧にすることが、江戸文明のありかたでした。江戸時代の「始末・倹約・勿体ない」という考え方は、自然が命の源だからこそ、取りすぎず、限られた資源を注意深く使いながら形成されたのです。
第二には、自然が恵みの源泉であったので、海も山も森も生き物も、そして都市生活も、すべてが連環していると考えたことです。つまり、どこかが損なわれたら他のものも損なわれるわけですから、どんな場所も壊してはならないのです。
江戸時代初期には、樹木の過剰伐採がおこなわれました。城や城下町が次々と建設されたからです。1500年代末から1600年代はじめには、約200の城下町が建設されました。都市を造るために運河を縦横に開削し、海を埋め立てることもありました。山の木を大量に伐った結果、洪水が頻発するようになりました。そこで1666年、幕府は「山川掟(さんせんのおきて)」を発令し、樹木を根から伐採することを禁じ、川上の左右に樹木の苗を植えることを命じ、川筋や河原に新田開発することや焼畑を禁じました。それと前後して、複数の藩が、指定区域内での立ち木の伐採を禁止する留山(とめやま)や、伐採する木を制限する停止木(ちょうじぼく)を定めました。山を守ることで、川や海や人の生活を守ったのです。そして1700年代になると、江戸時代の日本人は積極的な育林を始めました。
第三に、都市も自然の循環の中に組み入れられたことです。都市は周辺農村と異なる世界ではなく、都市と農村は相互に依存していました。たとえば江戸には参勤交代で全国から多くの武士が集まり、それにともなって商人や職人も集住しました。人口集中が起こったのです。参勤交代制度から10年以上たった1649年ごろ、江戸ではかわや形式の雪隠のとりこわしが命じられました。そのころ都市に暮らしている人たちの排泄物は水路や川や堀に棄てられていましたが、それでは不潔なだけではなく、舟による流通にも支障があったのです。そこで川に流すことをせず、そのころ農村で行われていたように、都市でもくみ取りが始まり、人間の排泄物は「下肥」と呼ばれ、農村に運ばれて肥料として有効活用されるようになったのです。
やがて「下肥問屋」という問屋ができました。下肥問屋は店あるいは家主と契約し、くみ取りの人や船や船頭を雇い、受け取った下肥の分だけ、野菜やお金を支払いました。下肥は高騰し、農民による値下げ運動も起こるようになりました。営業権である下掃除(しもそうじ)権という株も、高値で売買されるようになりました。人の排泄物は邪魔者ではなく、商品として成立していたのです。
私たちはいま、ゴミを処理してもらうためにお金を支払っています。しかし江戸時代では、ゴミは有料で買い取るものでした。1832ごろに刊行された『農稼肥培論』という書物があります。ここには、土に栄養分を与える肥料として、人や馬や牛や鳥の排泄物だけでなく、草、泥、すす、毛、爪、皮、ぬか、植物から油を絞ったあとの粕(かす)、そして多様な魚類が挙げられています。生活から出る過剰なものや不要物はことごとく土に返し、土の下の微生物がそれを分解し、土を肥やし、次の植物の生育の役立ったわけです。
第四に、衣食住を支えるあらゆる「もの」が、この循環システムに従って使われ、処理されたことです。着物はもともと四角い布を縫い合わせたものですので、これをほどき、子供の衣類やふとんや風呂敷やつぎあてなど、さまざまな別のものに作り替えることができました。紙は漉き返し紙、つまりリサイクルペーパーとなって何度も使われました。落語にも出て来る浅草紙、西洞院紙とは、リサイクルペーパーのことです。米をとったあとに残る稲藁は、わらじや笠、蓑などの旅行用品になりました。それらが使えなくなると、稲藁は発酵処理されて堆肥になります。布や紙は燃やされて灰になると、灰を買う業者に買い取られました。灰は洗剤のかわりになったり、染め物に使われたり、肥料にもなったのです。ものは徹底的に長いあいだ使われ、使えなくなると土の力を借りて、もう一度人間の社会に戻ってきたのです。
第五に、これら生活必需品は100%近くが国産品であったことです。世界は1500年代後半にアメリカ大陸とアジアがつながり、グローバリゼーションの時代を迎えました。日本は世界有数の銀産出国でしたので、多くのものを主に中国や東南アジアから輸入していました。しかしこのグローバリゼーションの中で、アメリカ大陸の銀がアジアに入ってくるようになりました。豊臣秀吉は海外戦争によって領地の拡大を狙いしましたが敗戦国となり、戦争によって経済状態は最悪になりました。江戸時代とは、グローバルな状況のなかで拡大路線を捨てて戦争を回避し、自国の生産力を高めることで日本を再生した時代です。
多くの職人が生まれ、技術革新をすすめ、国内の生産物が国内の市場を満たしました。航路の開発によって、日本全国に流通するようにもなりました。海外の情報や一定量の輸入によって新しい商品を生み出しながら、いわゆる「日本文化」と言われるものの大半を江戸時代の人々は過去から受け継ぎ、発展させ、時代独自のものも作り出したのです。
5つの事柄によって江戸時代を見てきました。「持続可能で復元力のある自立した国とは何か」を考えさせられます。自然を人の生活の最重要拠点とし、自国の生産力を持ち続け、国家間の衝突を常に回避できる国をめざしたい、と思うのです。