青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

馬鹿みたい

2008年06月13日 | 短歌に政治や社会
「内閣信任」衆院で可決、民主など3野党欠席(読売新聞) - goo ニュース

「内閣信任」されたからといって、「後期高齢者医療制度」も「道路特定財源」も「年金問題」も、その他色んな問題は一つとして信任されていない。
それなのに、そういう内閣を信任する議員も、議員である。何の成果を挙げることのできない内閣を信任して、それで議院職を続けていくことが出来るというのであれば、選良を欺くことになる。
それは小中学生に、問うて見ると良いだろう。
「学力試験」で点数を取れなかったら、落ちこぼれとなるのに、内閣は成果を挙げなくても信任を受けられるのだから、いいものだ、と思うだろう。

成果を挙げない内閣を信任する議員を選挙で選んだなんて、馬鹿みたい・・・・。
こんな状態から脱却したいけれども、「解散権」は、成果を挙げられない首相が握っている。そういう権限を与えてしまった後始末は、国民がしなければならないとは・・・・・・・。
情けないーーーーーーー。

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優位性の崩壊

2008年06月11日 | 人生設計
今日は、何にでも評価が付けられる。数値が付けられて、優劣に分別される。この数値化され優劣に分別されて評価されることによって、格差社会は広がっている。
「平等」と言いながら、この「不平等」性・・・・・。
この広がる格差の不平等に、優位性に対する崩壊現象が始まっている。大きなところでは「原油高騰」であり「物価高騰」、そして「地球温暖化現象」による「気象異常」。それは作物生産減産などに、つながっている。こういう現象の直撃を受けて、低所得者たちの生活は厳しさを増している。そして、この不満が噴出し始めている。
優位者に向かってーーーーー。権力者に向かってーーーー。
個人行為として、あるいは集団行為として、暴徒化し始めている。
時には次の新聞のコラム記事のようなものもある。

▼2001年、大阪教育大付属池田小を襲った悪夢。▼あの日と同じ6月8日。再び惨劇が起こった。今度は歩行者天国でにぎわう東京・秋葉原。25歳の男が通行人に次々と襲いかかった▼暴走したトラックは人をなぎ倒し、振りかざした両刃のダガーナイフが突き刺さる。悲鳴が上がり崩れ落ちる人、血だまりのなか息絶え絶えの人…。7人が命を落とした▼

平家物語の冒頭に
  「おごれる者、久しからず・・・・」
とあるように、優位性に立とうとする者の末路は、このように定まっている。しかし歴史を学んだというのに、その歴史を学んだということは、少しも役に立っていない。
「優位性」を求めて「おごる」ばかりだ。
自然の道理は、平衛化を常とする。カタカナ語で言えば「バランス」を取ろうとする。そして「平均化」しようとし「平等」になろうとする。それは先日述べた「自由と不自由の理論」と同じことである。
今の今日は、その為の痛みの時であり、犠牲を求められている、と言えるだろうか。
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自由と不自由の理論

2008年06月09日 | 人生設計

「自由」という言葉が、やたらと使われる。「表現の自由、自由人権、自由主義」などや「自由と平等」が「自由」として使用されている。
この「自由」というものには、限界とか範囲とかが際限が無いような雰囲気がある。この為に「自由」は、「自由」という言葉とは裏腹に「不自由」な状態になっている。
一例を挙げると「お金」というものには、価値観があるはずである。しかしその価値観は、自由な際限がない価値観として思われている。その結果、無駄使いはするし、借金やサラ金に手を出すし、投機や儲け話に手を出して泣いたり、犯罪に手を染めたりするという不自由に見舞われる。
この事は「自由」に、限界があり限定された範囲があることに気が付かないからだといえる。
別な言い方をしよう。

私達が生きていくということは、空気がなければならない。水中であってもいけない。空中であってもいけない。食物がなければならない。熱いところであってもならず、寒冷地であってもならない。
こういう制約がある。
この制約からはみ出して生きるには、空気がない所や水中で生きるには酸素ボンベが必要だし、空中に浮かぶにはそのための動力が必要になるし、暑い所に生きるには冷房が、寒冷地に生きるには着込むとか暖房を必要とする。不自由を自由に変換するには、それなりの物を取り揃えなければならない。
この不自由を自由に変換するために、私達は「科学文明」を発展させてきた訳である。
だがそれで不自由が解消されたとは、いえない。解消されるどころか、むしろこの解消に必要な物資などの奪い合い、いわば「共食い」とも言える現象が起きて、更なる不自由を極めている。
即ち「争い」である。「格差」である。この解消のためにも、又不自由していかなければならない。自分の不都合を補おうとして自由になろうとしても、それが相対するものにとっては不都合であり不自由になっている。そして対立する。

自由を求め望みながら、かえってそれが不自由に陥る原因になっている。こうした悪循環から逃れるためには、釈尊の説かれた教えが適している。
もっとも私は釈尊の説法されたというものがどういうものだったか忘れてしまったが、その内容は覚えていて、こういうものであった。

「人の心は何処へでも行かれる。しかしある限界を超えようとする時、不平不満や不服不足らの思いを抱いたものになり、心の平安やゆとりを崩すものになる。
だが限界の限定を知ったものは、本当に自由に生きることになる。」

ここに「自由と不自由」の理論がある。
今日の私達は、豊かさと楽しさとを求める余りに今、物価高騰に原油高騰、食糧危機や地球温暖化危機に面している。自由を望み求めたのに、不都合な不自由に直面している・・・・・

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国家は泥棒か?

2008年06月07日 | 短歌に政治や社会
後期高齢者医療制度が始まってから二ヶ月経ったが、とても気持ちが悪い。
何故かというと、自分の預金口座が、国家によって操作されているからである。
「保険料を天引きする」ということだが、この「保険料を天引きする」ということを「許可」してもいないし「承諾」していないにもかかわらず、勝手に国家によって「天引き」されてしまっている。
「いつ許可した?、承諾した?」と、誰に聞けば良いのか。
返ってくる答えは、決まっていることだろう、「法律で決まっています」と・・・
「個人情報保護法」というのがあるけれども、あれは何なのかしら・・・・?
公共料金などを口座引き落としにする場合、事前に「許可、承諾」を求められる。しかし「後期高齢者医療保険」の保険料天引きに際しては、それがない。勝手に天引きされて、しまっている。国家によって管理され、操作されているかのように・・・・。
これでは国家による「泥棒」行為といえる。犯罪行為だ。

「後期高齢者医療制度」に賛成した国会議員、貴方たちを議員として選んだ私達は、こういう私達の預金の内容を操作する権限まで与えるために選んだのではありませんよ。何かを取り違えて、うぬぼれては、いませんか。
まるで国家を泥棒にするために、国会議員選んだみたいになっている。
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消費税引き上げの前に

2008年06月06日 | 短歌に政治や社会

このところ、色んな問題で国家財政が議論されている。しかし緊縮財政化にある状態にあって四苦八苦している国家財政では、財源がない事には身動きが取れない。それで取りざたされているのが「消費税引き上げ」議論ということになる。
「消費税」とは、一般感覚としては「広く薄く」徴税するということであろう。しかしこのことは、低所得者や病人や寝たきりのお年寄りばかりか、生まれたての赤ちゃんからも撤収するということにもなっている。
こうした人たちなど年金生活者には、消費税は応える。
一方、
富裕層などは、そのままに豪邸に住み、高級車を乗り回し、高級料理に舌鼓を打ち、パーテーに明け暮れる余裕がある。
こうした状況、格差を是正しないで、単なる語呂あわせみたいに「消費税引き上げ」というのは、大変矛盾している。ここはまず初めに、こうした片寄りがちな所得の流れの体系に対する課税を強化すべき必要がある。
平等負担としての消費税より前に、所得配分の平等がないことには、消費税議論は意味を持たないからだ。

しかしこの処置には、抵抗があるだろう。その一つに、高級品が売れなくなり、経済が停滞するということもある。
だがその分税収が増えて、低所得者達の購買意欲が増す、ということもありえる。
それだけではない。「財源がない、財源がない」といっていながら、国際宇宙ステーションなどに使う一兆円もの費用があるし、クライスター爆弾破棄や切り替え費用だとして何十億円も必要だ、という費用がある。
こういう費用を一般財源に回せば、消費税引き上げの必要もある程度なくなることだろう。
国家財政、というような大事で考えないで、家計を切り盛りするという庶民感覚でやってもらいたいものだ。

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神からの核攻撃

2008年06月04日 | 人生設計
私が住んでいる地域では、もう六十年前になるが地震があった。その地震で、私は崩壊した家屋の下敷きになり、九死に一生を得て助け出され、それが元で障害者になったけれども、間も無く六十一回目の震災記念日を迎える。
こうした体験をした私には、「怖い」とか「恐ろしい」とかは知らない。だから、こんなことを思う。

今日、各地で地震が多発している。台風も、サイクロンも津波などの自然災害ばかりか、テロや暴動なども多発している。
こういう報道などに接すると、「神からの核攻撃」を受けているように思ってしまう。
核攻撃は、何も人類が人類に対してのみ、行うものとは限らない。しかしうぬぼれている人類は、そうとは思わず、自然災害と思っている。そして「金に豊かさ」を求めて合い争い、科学技術の発達が、そのまま増幅されて我が身にはね返って攻撃されているということに気が付かないでいる。
武器や弾薬を生産し、海外派兵を声高に叫ぶ政治家にしても、自分の家族や子弟は一人も参加させずに安穏としているらしい。そういうことをマスメディアが一度調査したらどうなのか、と思う。

それはともかく、私達はいかなる場合でも、この地上に生きた人間として「人らしく」生きていかなければならない。それが今の私たちに、問われている命題だろう。
だから私は、私達が「人らしく生きて欲しい」と思うのが、青い鳥の願いであり、その思いで見守っている。
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宗教の変貌

2008年06月01日 | 人生設計

私の住む同一市内にあるが、細長いため端のほうにある。
ここに「浄土真宗の中興の祖、蓮如上人が開かれた「吉崎御坊」がある。
ここへ先日、ディサービスで、外出サービスで行って来た。
そして、こんな短歌を詠んだ。

★ 法の地に 佇み思う 人の道
       五月の風の かおるる中にも

しかし建物の中を見物していくにつれて、寂しい思いを禁じえない。そこには、宗教の持つ心の気配が、何となく希薄になっているのを感じられたからである。
これは何も宗教だけに限らないものなのだが、初期の想いとは裏腹に、催しのようになっている。カタカナ語を用いれば「イベントに、ショー化していて、セレモニー化」している。
いってみれば一過性に終わらせる様なものになっていて、持続的になっていないと言えるのである。
釈尊は「初めも良く、中程も良く、終わりも良き」そういう持続したものであるべきことを教えられていた。しかし現在の宗教も政治も教育も育児なども、一過性的になっていて後が続かないものになっている。
「吉崎御坊」の建物の中にも、ことにそこに展示されているものを見るとき、人は仏様に手を合わせながら、それなのに「世をのろい、人をのろい、人が悪いとか欲を出す」とかに明け暮れているだけに、寂しいのである。
宗教に限らず、何事も変貌していくものなのだが・・・・・・

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