私の住む同一市内にあるが、細長いため端のほうにある。
ここに「浄土真宗の中興の祖、蓮如上人が開かれた「吉崎御坊」がある。
ここへ先日、ディサービスで、外出サービスで行って来た。
そして、こんな短歌を詠んだ。
★ 法の地に 佇み思う 人の道
五月の風の かおるる中にも
しかし建物の中を見物していくにつれて、寂しい思いを禁じえない。そこには、宗教の持つ心の気配が、何となく希薄になっているのを感じられたからである。
これは何も宗教だけに限らないものなのだが、初期の想いとは裏腹に、催しのようになっている。カタカナ語を用いれば「イベントに、ショー化していて、セレモニー化」している。
いってみれば一過性に終わらせる様なものになっていて、持続的になっていないと言えるのである。
釈尊は「初めも良く、中程も良く、終わりも良き」そういう持続したものであるべきことを教えられていた。しかし現在の宗教も政治も教育も育児なども、一過性的になっていて後が続かないものになっている。
「吉崎御坊」の建物の中にも、ことにそこに展示されているものを見るとき、人は仏様に手を合わせながら、それなのに「世をのろい、人をのろい、人が悪いとか欲を出す」とかに明け暮れているだけに、寂しいのである。
宗教に限らず、何事も変貌していくものなのだが・・・・・・