「天地自然の僕」となることを自覚し、そして素直に戴き頂戴していくことが「壊れることない民主主義」を発露させるものである。
だが「青い鳥の民主主義理論」は、これをもって「良し」としない。
その理由は、我々が産まれ、そして生き、成長し、暮らし生活していくこの世の世界というものは、「流れゆく」世界だからである。止まって静止していずに、常に変化し動いている状態にあるところから、我々は我々の持つべき主観ともいえべき主義の基幹を持たなければならなくなる。
この世が流れ静止ていず、常に変化し流動しているということは、「民主主義」自体もまた、静止した状態ではあり得ず、常に変化し流動していることを意味する。
しかしこの「変化し流動している」という事は、「民主主義」そのもののことを意味しない。
「民主主義」そのものが固定されずに、流動していくということである。
別にいえば「伝承」とも、言える。
言わば、跡取りに受け継がれていくという事で、後の世に生きる者に託されていくものである。
そうなると、我々は固定化されない「民主主義」を、そのもの自体が変化しない「民主主義」としてしっかりと後世に託せるかどうか、言わば「眼鏡に叶うかどうか」見極めていかなければならない。
これは「導く」という事でもあり、「導師」とならなければならないという事でもある。
「導師」と言うと、一般的には「坊さん、神父」などのことを言う。
しかし今日の「坊さん、神父」などは、「鈍らものの生臭坊主にクソ坊主」なものである。
たとえば首相とか幹事長とか国会議員などが墓参している時に坊さんが付き添っているが、母親から「お小遣い」貰っていたり、「如何わしい資金管理団体」で秘書などが逮捕されたのに「自分は無罪」と言っていたり、「事務所費」を誤魔化しているようなのに、ただお経を上げ、読経し、焼香するのを見守っているだけで、これポッチも正しい引導を渡したり授けようともしないでいる。
これだから世の人は、親は子を、世間がその親を、官僚や大会社の会長や社長などを、甘やかし、おもねり、機嫌を伺う様な按配になって、人を頼り、当てにし、依りかかりするようになって、独り立ちできず、一人前に生きていかれないようになっている。することと言ったら、不手際をして「雁首そろえて」謝っている。
そしてそうでありながら、「人権、自由、平等」などの権利主張だけはしている。
「民主主義」とは、我々だけのものではなく、次代を担う者たちのためのものでもある。
その次代を担う者たちのために、我々はしっかりと正しい「民主主義」を担わせるに値する後世代かどうかを「眼鏡に叶う」ように育成し育ませていく責を追う。
そしてこの事は、とりもなおさずに、我々自身を「眼鏡にかなう」人間であるかどうかを自らが見極めていかなければならないと、という事でもある。
それは、「自分自身が自分自身に対して導師」とならなければならないことを意味する。
「青い鳥の民主主義理論」は、自分自身を「民主主義」を受け、授かるにふさわしい人間として育て育ませることによって、「民主主義」として成り立つ。
谷垣総裁は満面の笑み 「1番ポーズ」党役員全員で(朝日新聞) - goo ニュース
参院選が終わった。
しかし人間どもの、こうした宴の中で進む、こんな姿がある。
この画像は、私の家の前の街路樹である。
害虫にやられて、こんな姿になっている。
参院選が終わった。
しかし人間どもの、こうした宴の中で進む、こんな姿がある。
この画像は、私の家の前の街路樹である。
害虫にやられて、こんな姿になっている。
我々が「天地自然の僕」と知り得るならば、いかなる優れた主権主義である「民主主義」であったとしても、それを主義主張することは道に外れたものになる。
横暴であり、傲慢である。
我々に生命を与えられたこと、そしてその生命が生きるという人生というものは、我々が自由にできると思っているが、その実は「天地自然に飼い慣らされる」ためのものでしかない。別な言い方をするならば、「天地自然によって踊らされる」だけの代物でしかない。
それを「いかに飼い慣らされるか、踊らされるか」ということが、我々の人生の在り方だともいえる。とてものこと、主権主義を主張できるような、おこがましい身分なのでは無いことになる。
そうなると我々に出来ることは、素直に飼い慣らされるより外はなく、踊らされていく他に、どうすることもできない。逃れようとしても、逆らおうとしても、楯衝こうとしても、そうすると「苦しく、辛く、悲しい」思いをするばかりになる。それはまた、我々同士が、反目し合うこととなり、悲惨さが増すばかりになる。
こうならないためには、「素直に飼い慣らされ、踊らされ」、そして何事も「ありがたい」と頂戴していかなければならなくなる。
何事も「ありがたい」と頂戴していく時、「天地自然の僕」となってすべての物事を素直にいただくことになる。それは「天地自然の僕」としての「人権、自由、平等」として受け取られ、そこに「壊れることなき民主主義」が発露する。
横暴であり、傲慢である。
我々に生命を与えられたこと、そしてその生命が生きるという人生というものは、我々が自由にできると思っているが、その実は「天地自然に飼い慣らされる」ためのものでしかない。別な言い方をするならば、「天地自然によって踊らされる」だけの代物でしかない。
それを「いかに飼い慣らされるか、踊らされるか」ということが、我々の人生の在り方だともいえる。とてものこと、主権主義を主張できるような、おこがましい身分なのでは無いことになる。
そうなると我々に出来ることは、素直に飼い慣らされるより外はなく、踊らされていく他に、どうすることもできない。逃れようとしても、逆らおうとしても、楯衝こうとしても、そうすると「苦しく、辛く、悲しい」思いをするばかりになる。それはまた、我々同士が、反目し合うこととなり、悲惨さが増すばかりになる。
こうならないためには、「素直に飼い慣らされ、踊らされ」、そして何事も「ありがたい」と頂戴していかなければならなくなる。
何事も「ありがたい」と頂戴していく時、「天地自然の僕」となってすべての物事を素直にいただくことになる。それは「天地自然の僕」としての「人権、自由、平等」として受け取られ、そこに「壊れることなき民主主義」が発露する。
我々が主権主義として優れているという「民主主義」。
だが実は、これほど理論的でも、理性的でも、正当性もなく、整合性もなく、普遍性もない主義主権はない。それ故に、いつまでたっても人類が切望して止まない「平和」が、訪れることはないし、実現できそうにない。
それは何故かというと、「民主主義」自体が持っている落とし穴に、我々が落ち込んでいることにある。言わば、「民主主義」が、壊れているからなのである。
それを、ちょっと述べてみるとしよう。
民主主義の基本理念として、「基本的人権」がある。
この「基本的人権」は、「自由と平等」をもってする。
さて我々は、何かというと「人権がある」と言って「人権」を振りかざしたがる。
だがこの「人権」は、主体的なものだし、且つ独断性的なものである。
いかに我々が「人権」を主義主張としても、相対性がないならば、それは「のれんに腕押し」みたいなもので意味を持たない。
それに「人権」を主張するということは、相手の「人権」をねじ伏せ、やり込め、蹴散らしてでも上位に立とうとすることであり、相手の「人権」を否定したうえでの自分だけの「人権」ということになる。この事は、そのことをもって相手の「自由と平等」をも否定しようとしている。それは闘争心であり略奪行為であり、それが発展していじめ、誹謗中傷となり、戦闘行為となる。
こうなると、とても「民主主義」ときれい事の「平和主義」どころではなくなる。「民主主義」としての理論的でも、理性的でも、正当性もなく、整合性もなく、普遍性もない主義主張でしかなくなる。
ここに「民主主義」自体が持っている落とし穴、欠陥があり、「壊れている民主主義」なのである。
このように「欠陥と壊れている民主主義」がなぜ主義としてあるのかというと、先にも述べたように相対性に立たないことによる。普遍的でないからだ。
それは、そもそもなこととして、我々人間というものが「天地自然」の一部でしかないことを自覚していないことにある。別の言い方をするならば、我々人間は、「天地自然の僕」的存在でしかないということを、自覚できないことにある。
この事を言い替えると、「神の僕、仏の僕」というような宗教的な受け止め方ができないことにある。
我々が「天地自然の僕、神の僕、仏の僕」と自覚するなら、我々が抱く生命はすべて普遍的に同権な」ものと言えることになる。ということは「絶対自由と平等」ということになる。
民主主義が民主主義らしく存在し得るには、我々人間が主体性と独断性的民主主義に隔てられず、「天地自然の僕、神の僕、仏の僕」と僕らしく飼い慣らされていく時、「平和主義的民主主義」となる。
だが実は、これほど理論的でも、理性的でも、正当性もなく、整合性もなく、普遍性もない主義主権はない。それ故に、いつまでたっても人類が切望して止まない「平和」が、訪れることはないし、実現できそうにない。
それは何故かというと、「民主主義」自体が持っている落とし穴に、我々が落ち込んでいることにある。言わば、「民主主義」が、壊れているからなのである。
それを、ちょっと述べてみるとしよう。
民主主義の基本理念として、「基本的人権」がある。
この「基本的人権」は、「自由と平等」をもってする。
さて我々は、何かというと「人権がある」と言って「人権」を振りかざしたがる。
だがこの「人権」は、主体的なものだし、且つ独断性的なものである。
いかに我々が「人権」を主義主張としても、相対性がないならば、それは「のれんに腕押し」みたいなもので意味を持たない。
それに「人権」を主張するということは、相手の「人権」をねじ伏せ、やり込め、蹴散らしてでも上位に立とうとすることであり、相手の「人権」を否定したうえでの自分だけの「人権」ということになる。この事は、そのことをもって相手の「自由と平等」をも否定しようとしている。それは闘争心であり略奪行為であり、それが発展していじめ、誹謗中傷となり、戦闘行為となる。
こうなると、とても「民主主義」ときれい事の「平和主義」どころではなくなる。「民主主義」としての理論的でも、理性的でも、正当性もなく、整合性もなく、普遍性もない主義主張でしかなくなる。
ここに「民主主義」自体が持っている落とし穴、欠陥があり、「壊れている民主主義」なのである。
このように「欠陥と壊れている民主主義」がなぜ主義としてあるのかというと、先にも述べたように相対性に立たないことによる。普遍的でないからだ。
それは、そもそもなこととして、我々人間というものが「天地自然」の一部でしかないことを自覚していないことにある。別の言い方をするならば、我々人間は、「天地自然の僕」的存在でしかないということを、自覚できないことにある。
この事を言い替えると、「神の僕、仏の僕」というような宗教的な受け止め方ができないことにある。
我々が「天地自然の僕、神の僕、仏の僕」と自覚するなら、我々が抱く生命はすべて普遍的に同権な」ものと言えることになる。ということは「絶対自由と平等」ということになる。
民主主義が民主主義らしく存在し得るには、我々人間が主体性と独断性的民主主義に隔てられず、「天地自然の僕、神の僕、仏の僕」と僕らしく飼い慣らされていく時、「平和主義的民主主義」となる。
七夕の夕べに 2010/7/7
笹竹揺れる 軒先に
願い託して 吊り下げて
星のまたたきの 流れに乗り
運ばれる先は 天の川
風にそよぐ 笹の葉も
流れて瞬く 光る星も
願い求めて 探してた
叶えようとて 探してた
笹の葉触れて 騒ごうとも
星が瞬き 流れようとも
叶える願いは 世に一つ
広きこの世に 願うこの身に
いかに願い 叶えようとも
叶えを受ける この身には
受けるにふさわしい 身でなくば
叶える願いは 漏れていく
望みし願い 願うなら
受けるにふさわしい 心磨き
苦難忍んで 耐え続け
七夕の夜に 出会ってる