二葉鍼灸療院 院長のドタバタ活動日記

私が日頃行っている活動や、日々の鍼灸臨床で感じたことなどを綴っていきたいと思います。

「命」は繋がりにより活かされているもの

2009年10月09日 | 社会
日本では3万人を超える人が毎年、自殺しています。自殺未遂者はその十倍の30万人にのぼると推定されています。単純に計算すると十年で300万人です。大東亜戦争で命を失い犠牲になった人数に匹敵します。

なぜ毎年、希望と可能性に満ちた大切な「命」が失われなければいけないのでしょうか戦後、生活が豊かになった日本にあって、何が毎年多くの人々を「死」に追いやるのでしょうか

人間が「命」を授かった瞬間から、100%の確率で起こりうる未来の出来事は「死」ぬということです。生きるということは死に向かって前進していくことであると思います。現在の世の中を見回しても、病気、戦争、事故さまざまな形で自分の身に「死」というのは身近に存在すると感じます。

また、自分の意志をもって「死」を選択できるのは人間だけです。ヒトの細胞であっても、他の動物であっても全て自然の法則に則って「死」を迎えるようになっています。それらは、生のある限り一所懸命、瞬間を生き、次の世代へ自分の「命」をバトンタッチしていきます。

人間は他の動物と違い、考える力を与えられています。そのおかげで様々な地球の資源を活用し、人間が豊かに快適に生活する叡智が創造され、人類の歴史の中で積み重ねられ現在に至っているのだと思います。

話を「死」に戻すと、その考える力を与えられた動物である人間がなぜ、この世で一番大切な「命」を自分で絶つことを考えてしまうのでしょう。何か辛いことがあったり、困難が重なったり、だまされどん底に落ちた時など、「死にたい」「死ねば楽になるんでは」と思ったことは多くの人が体験していることだと思います。

さて、人が自分自身で「死」を選択しないためにはどうしたらいいのでしょうか。様々な方法があると思いますが、その一つの考え方を、下記に、お嬢さんを”神経芽細胞腫”という副腎に発生するガンにより6歳で亡くされ、深い悲しみの中、お嬢さんの「死」を自分に、または、社会に活かすことはできないかとという使命に気づかれ、それまで順調であった仕事を退職し、2005年に『いのちをバトンタッチする会』を設立され、各地で講演など「いのちの授業」を行ったり、小児ガンの支援活動などに取り組まれている鈴木中人さんの書籍から抜粋して書きます。

≪何を祈るにせよ、自然に手を合わすということは、自分を導いてくれる大いなるものがある、自分は生かされていると感じる心を誰もが持っている表れではないでしょうか。
しかし、今、手を合わせる営みが、私たちの生活の中でどんどん失われています。

ある学校では、給食のとき、「いただきます」「ごちそうさま」をすることをやめてしまいました。保護者から「給食代を自分が払っているのに、どうしてお礼を言わなければいけないのか」「手を合わせることは宗教行事だから、学校でやるべきではない」と言われたからだそうです。
魚、肉、野菜にはすべて「いのち」があります。私たちは、「いのち」をいただいて自分の「いのち」を生かしています。どんな食事にも、その食材を育ててくれた人、食事を作ってくれた人がいます。私たちは、いただく「いのち」と、そうした人たちに感謝をこめて手を合わせるのです。

別の小学校での出来事です。学校では、子どもが「いのち」を大切にする心を育ててほしいと願い、子どもが世話をしてウサギを飼っていました。ある日、ウサギが死んでしまいました。若い担任の先生が、子どもたちを集めて死んだウサギをどうするかを説明していました。たまたま校長先生が、その様子を見ていました。
若い担任の先生は言いました。「死んだウサギは腐るから、しっかりビニール袋に詰めて生ゴミの中に入れなさい。バイ菌がついているかも知れないから、捨てたら手をしっかり洗いなさい」。
校長先生は、慌てて若い担任の先生を呼び寄せて尋ねました。「どうして、「いのち」の大切さや手を合わせて天国に行ってくださいと教えないんだ!」。担任の先生は、けげんな表情で言いました。「手を合わせる?そんな宗教を学校で教えていいのですか?」。校長先生はひとことも言葉が出なかったそうです。

何かを祈るとき、思うとき、手を合わせるかどうかは、ひとりひとりの心の問題です。こうしなければいけないと押しつけることではありません。しかし、手を合わせることが、生かされているとの自覚を育んでくれます。それによって、普通に暮らすことへの感謝の心が生まれます。自分は何のために生かされているのだろうかと問いかけるとき、人は生きる意味を思い、自律の心が芽生えてくるのではないでしょうか。

また、手を合わせることは、人の心を救うことにもなるように思います。私たちは、寂しくなったり、悲しんだり、涙するときが必ずあります。そんなときは誰かに自分を支えて欲しい、救って欲しいと感じます。私は、景子の闘病中、何百回、何千回と手を合わせました。祈りは通じませんでしたが、心が救われたことを実感しました。≫

『6歳の花嫁さん~亡き娘から託された「いのちの授業」~』
                          鈴木中人 著


まず自分は自分一人で生きているのではなく、生(活)かされているということを自覚することが大切です。そこに感謝が生まれます。生きるということは感謝することの連続なのかもしれません。

私たちが食事をする時、その食事(給食)をつくってくれる人がおり、食事をするためには父母が仕事をしてお金を稼がないといけません。また、食材を売るお店があり、そのお店が仕入れにいく市場で働く人も関係します。農家の人が食材を心をこめてつくってくれるから食材が手に入ります。農家の人は畑や田圃など大地を利用し作物を作ります。そこには土や水が必要になります。またすくすくと美味しい野菜や果物が成長する、お魚が成長するには太陽の光が必要不可欠です。空気も必要です。

食事一つ考えても、私たちは自分一人で生きているのではなく、様々な人や物質と協調し助けられながら生かされていることが分かると思います。

人は繋がりの中で生きているので「孤独」なんてものは存在しません。人の「命」はお互い助け助けられ協力しながら生かされています。人はそれらに意識が向いたとき感謝の気持ちが溢れてきます。そこには自ら死を選ぶという選択はありません。人が自ら死を選ぶなら、その繋がり全てを断ち切ることになります。そうすればその繋がりに関与していた人すべて、自殺した人と同じくらい、それ以上に、悲しみや、辛さ、苦しみを味わうことになるのだと思います。

自分の「命」は、様々な繋がりにより生かされていることに気づき、感謝することができれば、そのような心を持つ人がたくさんになり、日本の空気が感謝の心で充満されれば、きっと自殺する人も、辛い思いをする人も減ってくるでしょうね 

二葉鍼灸療院 田中良和
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