二葉鍼灸療院 院長のドタバタ活動日記

私が日頃行っている活動や、日々の鍼灸臨床で感じたことなどを綴っていきたいと思います。

死ということ

2012年01月26日 | 社会
東日本大震災では多くの方がお亡くなりになりました。もうすぐ一年が経とうとしています。

今回は「死」について考えてみたい…というより私自身が考える時を得たので書いてみたいと思います。

いつも歩いて来院されていたご近所の女性が年末に転倒され、その女性の往診へ行っていました。その方は、年末にお嬢様をガンで亡くされました。転倒したのはその疲れもあったのでしょう。
年末からの鍼灸治療(往診)で、捻挫、打撲もほぼ治り、一昨日の病院診察では骨には全く異常なく大丈夫ということでした(病院にも行けないほどでしたので)。

本日往診で、その女性と治療中に話をしていました。

 「○○町の、○○さんって言う人が、私の娘より若くして亡くなったみたいよ。おそらくガンだろうね」

 「へ~そうなんですか」

と話しながら、その○○さんって言う人は、私の治療院へ通院していた方でした。少し動揺してしまいました。病院に入院中も様々な症状の改善に往診へ行き、病気の治療で体力が弱り、その副作用でいろんな症状が出て、その治療に当院へ来院されていました。昨年12月にも病院へ2回ほど往診へ行きました。

その後、連絡がなくたいへん気になっていました。

そんな時の、往診先の患者さんとの会話でした。治療院へ帰り、新聞の死亡欄をもう一度確認しました。その方の名前がありました。新聞を閉じて…もう一度確認しました。やっぱり、その人の名前でした。

その時、頭をよぎったのは、往診へ行った時の最後の顔、そして笑顔、本当に最高の治療をしてあげることができたかという疑問、もっといい方法があったのではないかという後悔、本当に○○さんの力になれたのか、など様々なことが頭をよぎりました。すごく心が重くなると同時に、もっと頑張らないといかん!という煮えたぎる何かも湧きあがってきました。

そんな時に「死」ということは何だろうということを思ったのです。

私の治療院では、不妊症の患者さまが多く来院され、命の芽生え、誕生、「生きる」について多く体験させて頂きます。赤ちゃんが生まれました!二人目が出来ました!という具合にです。そこでは本当に素晴らしい感動あり、鍼灸師をやっていてよかったなと思い、感動する瞬間です。

さて、私のところは「ガン」の患者さまも、ほぼ病院での治療後の身体ケアの一方法として鍼灸治療を利用するために来院されています。人数は多いとは言えませんが。中には、副作用が強く、あるいは病状が進んでおり、どうしようもない方も来院されますが、症状の軽減、あるいは免疫力の増強のため治療しています。

そこでは、この方のように、どうしようもない身体の状態で「死」を経験することもあります。鍼灸治療で「死」というものを直接体験するということはどういうことなのか、そこから何を学ばなければならないのか、それが今後の私の課題でもあるように思えます。

飯田史彦 先生は、その著書『生きがいの本質~いつまでも、いつまでも一緒~』の中で、このように書かれています。

☆人間は、いつか必ず死ぬ存在だからこそ、「人間として生きて死んでいく」という貴重な体験を学ぶことができます。誤解を恐れずに極論すれば、私たちは、「いずれ死ぬために生まれてきている」のです。

なぜなら、あまりにも当然すぎて見落としがちな真実ですが、そもそも「生まれて来なければ、死ぬことができない」ためです。死を通じて学ぶために、私たちは、死という現象が存在するこの世に、生まれて来ているのだと言えるでしょう。

「死」というものは、決して、価値や意味のない現象ではありません。いかなる人がどのような死にも、必ず大きな意味があります。自分の死を通じて、自分自身が何を学ぶのか。自分の死を通じて、自分の家族や周囲の人々に何を学んでもらおうとするのか。そして、自分の家族や周囲の人々の死を通じて、自分は何を学ぶべきなのか・・・・このように自問する時、私たちは、自分や人々の死というものを最高に生かすことができ、死というものに最大の価値を与えることができるのです。

しかし、私たちは「死」が人生最大の試練であるからこそ、死という状況に直面することを極度に恐れます。現代社会では、私たち人間にとって、死ぬことは悲劇であり、挫折であり、損失にすぎないと考えられているためです。―☆


飯田先生は、そのように書かれています。

確かに命が誕生しなければ、死というものはありません。飯田先生は、著書の中の他の部分では、それは学びだから悲しまなくていいと言っているのではなく、その時の自分の感情のままに悲しみ、泣くことも大切であると言っています。そして、その悲しみを乗り越えていく時に、お亡くなりになった方からの「学び」あるいは「教訓」「メッセージ」を思い、意味づけることで、そこに光を見出せるのではないかとも感じます。

私も、そんな死はいくつか体験しました。

また、飯田先生は以下のようにも書かれています。

☆すべてのことには意味があり、「死」にさえも貴重な価値が込められているということ、そして、先立ったその人が与えてくださった宝物のような価値を受け取るのが、あなたの使命だということ…最愛の人を亡くされた方に、このような発想を受け入れて未来へ向いて頂くためには、

 「また必ず会えるのだ」
(魂で考えると、家族や夫婦という身近な存在は、形を変えて過去世ではいつも出会っているということ…未来も。この文章は、私の説明です)
 
 「自分で計画した問題集なのだ」
(魂で考えると、生まれる時は、自分がこの両親を選んで生まれてくるようです。また、人生には様々な分岐点があり、いい事あり、悪い事あり、山あり、谷ありですが、分岐点でどのように判断し、決断したかによって運命は変わりますが、大きな人生の流れと、その時々に起きる出来事「魂や自分を成長させる問題集〉は自分で決めて生まれてくるようです。この文章も私の付け足しです)

という二つの大前提が、大きな役割を果たしてくれるのです。―☆



この辺りになると、それぞれの宗教観や人生観があります。ものの捉え方が違いますので、これが正しい、これが間違っているということはなく、それぞれが信じていることを信じればいいと思います。私は、上記の飯田先生のような捉え方をすると、「死」というものに関しても、悲しみが薄らぎ、ある時期が来ると、気持ちが楽になり、前向きになってくると思うのです。

「死」というのは「生まれた」時に宿命づけられた100%起こる最終行事です。その最終行事をどのような形で行うか、終わりよければすべて良し、ではありませんが、そのためには、どう生きるかだと思います。

「葉隠」という書にも「武士道とは、死ぬこととみつけたり」という一文があります。当たり前のことかもしれませんが、死にざまは、生きざまで決まるのだと思いますね。

死というのは、その人との別れであり悲しく、辛いことではあります。また、その人との別れには自分へのメッセージが含まれており、死にさえも学びがあるということ。そして、お別れする人の生きてきた人生を振り返り、感謝し、称え(その逆の反面教師的な学びもあるかもしれません)、そして自分の成長に繋げていくことが大切なのかもしれません。

身近な人の死…それを悲しむだけ、悲しんで、泣くだけ、泣いたら、次には、そこからのメッセージをくみ取り、自分の人生に活かしていくことができればベストなのだと思います。私の場合は、今回のことで、またさらに鍼灸道あるいは、病める人が健康になるために精進しなければ!と再確認し、腹を据えていきたいと思いを新たにさせて頂きました。

お亡くなりになられた患者さまのご冥福をお祈りいたします。

そして、このようなことを深く考えさせて頂き、深く感謝いたします。


二葉鍼灸療院 田中良和
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