令和2年、この年を語る全てと言ってもいいほど新型コロナウイルス感染症が世界を席巻しています
日本においてもクラスターが各地で確認され、また感染地域は岩手県を残して全県に及んでいます。石川県内も4月10日には20名の感染者が発生し92名の方が感染されました。
この感染症による日本の死亡者は徐々に増加していますが、まだ世界に比べれると少ない状況です。イタリアやスペイン、アメリカ合衆国では1万人規模の死亡者が出ております。
そんな中、先日の報道でイタリアにおいては感染症に携わった医師105名がお亡くなりになっているという事を聞き愕然としましたし、悲しかったです。
一番危険と隣り合わせの中で、患者の回復のため、感染症を広げないために日夜、究極のお仕事と言える医療の最前線で活躍いただいている医師や看護師の皆様には、もう感謝しかありません
救急や隔離病棟(診察室)、ICU等で従事しただいている皆様がいるからこそ、そのような医療があるからこそ、私たちは安心して生活できます。罹患した場合に対処する方法があります。
そんな医師や看護師、病院関係者の皆様が感染症に感染し、尊い命を落とされています。
悲しんでも、悔やんでも、現場に行って援助できるわけでもなく、どうしていいか分かりません。
だったら、感謝の念を言葉で祈りで伝えればいい
直接、会うことができれば伝えることはできますが、この状況でもありますし、遠く離れていても応援していることを、毎日、時間があれば感謝を示せばいいんだと思います
その氣や波動は、人の思いは必ず伝わると思います。
世界の一人ひとりが、前線で戦っている皆様に、そんな温かい思いを伝えることができれば、感染症も早期に終息していくだろう ・・・と願っています。
そんなことで、私も本日より、日本で、世界で、この感染症と戦っていただいている医師や看護師、病院関係者の皆様に、波動砲で 感謝の念を送りたいと思います。
大事なことは、心で、深い意識で、温かい心を繋げ合うことなのではないかと感じます。
最後に、第二次世界大戦(大東亜戦争)が終戦してもなお、フィリピンのジャングルの中で30年間任務を遂行し、最後は一人だけになっても生き抜いた、小野田寛郎(おのだ ひろお)さんの書籍『生きる』より抜粋。
ルバング島に着任してすぐの昭和二十年三月一日のこと。森林で四方を敵に包囲され、絶体絶命のピンチに立たされることがあった。敵との距離は五十メートルほどの、いわゆる近接戦である。そのときこちらは二百人ほどの集団だったが、指揮をとれる者が私以外にいなかった。
私はどうすればその窮地を脱することができるか全身全霊で考えた。周囲の状況を観察しているうちに、突然、悪寒がして脳みそが大きくなったような感覚にとらわれた。夕闇近いというのに、周囲が昼間のような明るさに見え、数十メートル先に葉っぱの葉脈までもがはっきりと認識できた。敵の居場所や地形の高低がくっきりと頭の中に浮かんで、どこまで這っていき、どこから走ればいいのか逃走経路がイメージできた。
と同時に、なぜか、「絶対成功する」という確信が心の中から湧いてきた。なんとも不思議な感覚だが、実際にその確認通りに、全員無事にその場を離脱することができた。
長い戦場経験の中でも、こんな体験をしたのはこの時だけである。人間、絶対絶命のピンチに陥っても、必死で生きる道を探れば、眠っていた潜在能力が目を覚まし、思いもよらぬ力が出るのだということを現実に体験した出来事であった。
私たちは有難いことに戦争体験したことはありませんが、今が小野田さんが体験した状況に似た状態かもしれません。
コロナウイルス最前線で尽力される皆様を心より尊敬するとともに応援いたします
最後までお読みいただき、ありがとうございます
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