住まいの安全 心の健康 住まい塾 21

住まいの安全性、食物の安全性、政治の危険性、感動の共有
心と体のリラクゼーション、誰かに秘密を話すストレス解消

エダノオー、山形さ2度と来んな!!

2014年11月29日 | 日記

  オメーの言葉一つ一つが、韓流だべー・・・・。
息を吐くように、『嘘』を付かれたんでは山形県民の良識も、日本国民のメンタリティも、民主党並み、韓国並みに成っちまう。



ったく、オメーらは他人の気持ちを全く理解出来ない『自閉症』と言ったら、自閉症の方に失礼か・・・?
川は、上流が濁れば海まで濁る、という自然の営みが理解出来ないらしい。

『偏差値馬鹿』は、 これだから困る。  東京大学や東北大学にやっとこさ入った人、世間から隔離され、そのことだけを生活目標として生きた人は、大学卒業以降『伸びきったゴム』と同じ状態で最早期待された『伸び代』が無くなっている。

そんな、ゴムにゴムとしての期待を持つほど、国民はアホではない。


 
  ***  以下引用  河北新報 11/29付 ***

 民主党の枝野幸男幹事長は28日、山形市内で街頭演説し、米価下落に関して民主党政権が創設した戸別所得補償制度を挙げて「制度があれば、農家は何とかやっていけると思えたはずだ。しかし安倍晋三首相は補償をなくそうとしている」と述べ、政府、自民党の農業政策を批判した。

 非正規労働者が増えている現状については「結婚して、子どもを生み育てられる最低限の雇用環境を整えなければならない」と強調した。
 
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  ***  以上引用  終  ***




  最高学府を出ているのだから、『オオカミ少年』の童話くらい御存知であろう。
仙台訛りのアヅミと供に、三途(賽)の川原で石積みに励んで、一から出直して来い!!

武器の無い『ひつじ』だって、言を左右にする『羊飼い』には、誰も、何も、期待しない。
君達に必要なのは、高いところからの講釈では無くて、老人ホーム等での派遣社員としての『雑巾掛け』であろう。 下々は、爆弾を抱えるか、飯付きの刑務所に入るか、迷っている人々ばかりだ・・・。 
 
 今回の選挙で、『雲散霧消』の民主党を期待するのみ・・・・。

  桜井充氏他、数名かは惜しい人も居ない訳では無いが、周りが『韓流』だらけでは、その色に染まるのも時間の問題のような、感じがして成らない。
≪民主党≫の大方の諸君、君達は海の藻屑と成ったほうが、これからの日本の立ち直りは、早い、とくに松下政経塾出身者が変わり身が早い、民主党、自民党を問わず・・・そんな気がする、ガンの原因は彼らではないのか・・。

  松下幸之助翁は、どちらかと言えば商人(あきんど)であったから、その教えのどこかに致命的なところが有ったのだろう。


若い人へ 『温故知新』

2014年11月29日 | 日記

  古き良き日本(あるいは日本人)を、ブログで讃えている『ねずさん』と云う人が居ます。
その文章は、難しくは有りませんが筆者の心をしっかり打つ文章で、とてもマネ出来そうに在りません。
でも気持ちは、良く響くものが有り、いつかこの様なブログを書きたいものだと云う思いも有ります。

  なので、今日はそのブログのまる写し(約半分)です。  削除依頼が入ったら無くなりますし、あるいは全文を読みたいと云う方は、下記URLに飛んで、読んで頂ける事を期待します。

  ***  以下引用 下記URL  ***
   http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2462.html

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  【勇敢で、高潔で、誰からも好かれた日本人】

 大東亜戦争の頃、Mさんというインド人の若者がいました。
Mさんはインド国民軍に参加し、日本軍の新藤(仮名)という軍人の下で訓練を受けたそうです。
新藤さんは、日本人にしては色が黒く目鼻立ちが濃かったせいで、日本兵の間で「インド人に似ているから、お前のあだ名はインドさんだ!」とおもしろがって呼ばれていました。
またMさんたちも、あだ名と、名前の発音がインドの古称である「シンド」と似ているため、「シンドさん、シンドさん」と親しみを込めて呼ばれていました。

 新藤さんの訓練は、とっても厳しいものでした。
Mさんたちインドの兵士を怒鳴りつけたり鉄拳制裁を加えたりするのも日常茶飯事でした。
でも訓練が終わると新藤さんは、日本の歌やインドの歌を一緒に歌ったり、言葉を教えあったり、時には特別配給されたお菓子を分けてくれたりと、日本人、インド人を問わず、兵士たちの誰からも尊敬され、愛される上官でした。

 いよいよ訓練が終わり、インパールの戦いに赴くことになりました。
その時Mさんたちは新藤さんの部下として、作戦に参加することになりました。


  激戦の中、新藤さんの部隊は、強力な英国軍の陣地を攻めるため、本隊から大きく迂回してジャングルの中を進んで英国軍の背後を突くように、という命令を与えられました。
しかし、攻撃前に発見され、ほぼ全滅するほどの被害を受けてしまいました。

 気づけば、Mさんの周囲で生き残ったのは、同世代の若いインド兵がわずか5名だけでした。
みんな恐怖で逃げ散って、かろうじて生き残った者ばかりです。
英国軍に見つかれば殺されると怯えるMさんたちの元に、片腕を失った新藤さんが合流しました。
そして「作戦は失敗した、本隊と合流しよう」と告げました。

 ですが、武器も食糧も水もろくにありません。
合流しようとする本隊さえ、どこにいるかわかりません。
あたりには、敵兵がうようよいます。
なので、移動は夜中しかできません。

 そんな中でも、重傷の新藤さんは、怯えるMさんたちを 励ましてくれました。
そしてみんな、杖代わりの小銃にすがって山中をさまよいました。

 数日後、食糧も水も尽き、新藤さんの病状も悪化し、いよいよもうダメだとMさんたちが覚悟した時、最悪なことに10人ほどの英国軍の小部隊が近づいてきました。
新藤さんは、Mさんたちに告げました。

「私は、この怪我ではまもなく死ぬ。だが諸君はなんとしても生き延びて、インドの独立のために戦いなさい」

 新藤さんは、うなずくMさんたちを地面に伏せさせ、その上に土や落ち葉をかぶせました。
そして「ガンバレ!」と叫ぶと、弾の尽きた小銃だけを手に、英国軍に向かって駆け出しました。

 何歩も行かないうちに、英国軍の機関銃に頭を撃たれました。
鉄兜をはね飛ばされ、その場に倒れました。
それでも、新藤さんは跳ね起きると、小銃を構えて英国兵に襲いかかり、銃剣で3人を刺し殺しました。
そしてなおも片手で血まみれの銃を振り回す新藤さんに恐れをなした英国兵は、武器や荷物を放り出し、悲鳴を上げて逃げ去っていきました。

 英国兵が逃げ去って始めて、新藤さんはその場にばったりと倒れました。
敵兵が去った後、新藤さんに駆け寄ったMさんたちが見たのは、最初の機関銃の弾で頭を撃ち抜かれたために、頭が半分無くなってしまった新藤さんの変わり果てた姿でした。

 Mさんたちは、新藤さんの遺体を囲んで泣きました。
日本人がこんなに勇敢に戦ったのに、私たちは怯えて見ているだけだった。情けない。
これからは勇敢に戦い、新藤さんが願ったように、生き延びて、インドのために命がけで働こう、と誓いあいました。
そして新藤さんの遺品である銃やお守りを手に、英国軍の残していった武器や食料をみんなで分け合い、その場を離れました。

 新藤さんの死から、10日以上も山中をさまよいました。
一行は小さな集落にたどり着き、その住民に助けてもらって、ようやく日本軍(当初属していた本隊ではない部隊)と合流できました。
形見のお守りは合流した日本軍の士官に渡したそうですから、おそらく遺族の元に戻ったことでしょう。

 そうそう、士官が確認のために開けた時、中には小さな木の板と、折りたたんだ写真。。。新藤氏が奥さんの隣で、小さな女の子を抱いて微笑んでいる写真。。。が入っていたそうです。
小さなお子さんのためにも、なんとしても日本に帰りたかっただろうに、命がけで自分たちを守ってくれた新藤さんの勇気に、Mさんたちは再び声を上げて泣いたそうです。

  そして、終戦。

 最後までMさんたちの面倒を見てくれた日本軍の士官は「私たちと一緒にいると、君たちは英国軍に捕まってしまうから、身分を隠して故郷に帰りなさい」といって、わずかながらお金や食料、衣服などを分け与えてくれました。
そして「インド独立の約束を果たせなくてすまない」と涙を流して頭を下げたそうです。

 戦争の後、故郷に帰ったMさんたちは協力し合って、新藤さんの最後の言葉「ガンバレ!」を合い言葉に、インドの独立と発展のために必死で働きました。
Mさんは軍人として大成し、仲間たちもお互いに力を合わせて、政治家や実業家、学者として同様に成功を修めていきました。

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  法に基づく統治というもの自体は古くから存在するものですけれど、それが「法治主義、法治国家」として定着した概念になったのは、19世紀のドイツです。
つまり人類史において、法治主義なるものは、まだできて200年弱の歴史しかないものです。

  そして、いかなる法を作ったとしても、それが文字である以上、必ず法の網の目をくぐる者が出てきます。
まして処罰規定ともなれば、法治主義=捕まりさえしなければ何をやっても良いという発想を招きます。底が浅いのです。
世界の歴史の中で、法で犯罪が撲滅できた国はありません。

  ところが日本では、たとえば江戸の享保年間の20年の間に、江戸の小伝馬町の牢屋に収監された犯罪者が、20年でゼロだったことにも代表されるように、昭和になっても「家に鍵をかける習慣がない」ほど、治安の良い、約束の守られる国家が実現されています。
なぜでしょう。


  その答えが道徳、人の道です。
よく、「道徳が先か法が先か」などということを議論したものを見かけますが、あわれな論争です。
両者は対立するものではなく、道徳があって法があり、法があって道徳がある、つまり並立するものだからです。

  戦後の日本は、経済を中心とし、道徳教育が放棄されましたが、それでも1億の民は、それぞれに親や祖父母を持っているわけです。
民間の間には、ちゃんと道徳心が生きている。
だからこそ、東日本大震災や、先般の長野地震においても、人々は自分のことよりも互いに助けあうことを重視して行動しました。
他所の国なら、略奪や暴動が起こっていたところです。

  戦前は、これを教育においても徹底していたから、日本人の人格は、世界中どこに行っても高潔とされました。
そして上に述べた新藤さんのような心得を、名もない一兵卒であっても、誰もが等しく日本人として共有していました。それが「あたりまえ」でした。

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   ***   以上引用  終  ***