大正12年に国鉄越美南線(現・長良川鉄道)が開通して、上有知川湊はその役目を終えました。城下町はその名を美濃町と変え、うだつの上がる街として栄えた通りの側に賑わいが移りました。川湊灯台は今ひっそりと川沿いにたたずみ、当時の面影を忍ばせているのみです。
城下町に美濃和紙や生糸などの輸送基地としての他、上流からの木材の運搬を中継するため、番船40槽が接岸できる上有知川湊ができ、大正初期まで人や物が集散する町として賑わいました。江戸時代末期に住吉神社への献灯を兼ねて、高さ9mの川湊灯台が作られました。
美濃橋の袂から長良川左岸に沿った細い道を下流に向かって下ってみました。飛騨高山藩主の金森長近が小倉山城を造り、お城の東側の川岸のこの辺りの上有知町(こうずちまち)を城下町として町割りを完成させました。今はほとんど人通りがない町はずれです。