大寒波襲来を伝えられた日、いつもの公園を訪問しました。夜半から舞っていた雪のためか、休日ですが遊びに来る人の影はまだ見えません。恒例の年末年始の飾り付け物は週が改まってからのようです。(12月23日撮影)
大正12年に国鉄越美南線(現・長良川鉄道)が開通して、上有知川湊はその役目を終えました。城下町はその名を美濃町と変え、うだつの上がる街として栄えた通りの側に賑わいが移りました。川湊灯台は今ひっそりと川沿いにたたずみ、当時の面影を忍ばせているのみです。
城下町に美濃和紙や生糸などの輸送基地としての他、上流からの木材の運搬を中継するため、番船40槽が接岸できる上有知川湊ができ、大正初期まで人や物が集散する町として賑わいました。江戸時代末期に住吉神社への献灯を兼ねて、高さ9mの川湊灯台が作られました。
美濃橋の袂から長良川左岸に沿った細い道を下流に向かって下ってみました。飛騨高山藩主の金森長近が小倉山城を造り、お城の東側の川岸のこの辺りの上有知町(こうずちまち)を城下町として町割りを完成させました。今はほとんど人通りがない町はずれです。
吊り橋は小倉山に埋め込まれたロープを支えるアンカーレイジと、頑強な岩の塊の上に立つ主塔が支え続けています。岩山を削ってまで生活道路を建設した理由がここにありました。最初橋桁の色はブルーでした。長良川の水流に架かる橋としてはこの真紅がお似合いですね。
左岸側主塔は岸から突き出た岩盤に築かれました。この岩があって初めてこの場所に吊り橋が設置できたのです。美しい橋の形を支えるためにはこんなごつごつした基盤が必要だったのですね。今はその役目のほとんどを上流に造られた新美濃橋に譲っています。
木製の床は吊り橋自体の重量を少しでも軽くするためのぎりぎりの計算結果から採用されました。今は自動車の通行は禁止され、同時に通行できる人数も制限されています。かっては小型のバスであってもこの橋を通行できたことが信じられないくらいです。