今日は睡眠時間が短すぎるという欠点もありましたが、起床成功。しかし、せっかくの時間を有効に使えず、勉強は午後からの開始となりました。で、某先生に「この本も読んでないのか」とあきれられた、佐々木力『科学論入門』(岩波新書、1996年)をようやく読了。
本書は、読者が近代自然科学の総合的理解を形成することを目的に、歴史的哲学的社会的分析を通して現代のあるべき姿を模索した本だそうです。特に近代日本の科学の受容の問題点を明らかにした第一章、技術発展を背景とした近代科学(テクノロジー科学)の成立と展開を明らかにした第二章、科学を背景とした技術(科学的テクノロジー)の問題を明らかにした第三章、の三章は読みごたえがありました。この本は自然科学の歴史的・哲学的問題を中心に論じていますが、数学・物理学・医学を中心とした複数の事例によって自然科学を論じているために、科学のスタンダードに触れた気がします。もちろん専門にわたる部分は半分も理解できてないと思いますが…
教育学を研究する学生が、なぜ科学のスタンダードに触れてよろこんでいるかというと、教育学と科学の関係に注目するからです。私のホームページにも書いているように、私はもともと教育学の科学化という課題に興味をもっていました。こちらにも書いたように、「科学=普遍的」といった“幻想”に囚われている程度でしたが(あえて今本文は直しません)… それはさておき、佐々木著を読みながら、私は物理学や数学、特に医学の部分を教育学にどうしても置き換えて読まざるを得ませんでした。近代における教育学の科学化を目指した動向は、まぎれもなく存在しますので(日本なら教育科学研究会とか)、読み替える妥当性はあると思います。
佐々木著では、17世紀以降技術発展(産業の機械化とか)に影響されて、自然科学が技術をささえる理論をつくり始めたとされています。19世紀ごろには、科学が技術の構成要素となり、その進展は技術に制限されるようになってしまったといいます。明治以降の日本は、まさにこのような自然科学と技術が融合した「科学技術」を導入していったわけです。この説明は自然科学に関する説明ですが、教育学にも重ね合わせることができます。19世紀、ヘルバルト主義教育学者が教授法いわば教育の技術を積極的に研究し、日本はどんどんこれらを受容していきました。佐々木著では日本の医学者による自然科学の分野における西欧のパラダイムの信奉が描かれていますが、日本の教育学者にもそのような様態が指摘されています。…などなど、読んでいて、この科学史観を日本の教育学史にあてはめるとどうなるのかな、とわくわくしたことを告白しておきます(恥ずかしい!)。もちろん、佐々木著のいちばん言いたいところである、近代科学技術の問題点とその対策について、特に技術が理論を必要としないことを論じた点も考えさせられました。
本著を読んで、今やっている教育会史研究にもいろいろ示唆を受けました。博士論文に反映するといいのですが。また、さらにその先の話ですが、いずれこの視点を利用して、近代日本における教育学の歴史も描きたい!という無謀な野望も(恥ずかしい!)…
本書は、読者が近代自然科学の総合的理解を形成することを目的に、歴史的哲学的社会的分析を通して現代のあるべき姿を模索した本だそうです。特に近代日本の科学の受容の問題点を明らかにした第一章、技術発展を背景とした近代科学(テクノロジー科学)の成立と展開を明らかにした第二章、科学を背景とした技術(科学的テクノロジー)の問題を明らかにした第三章、の三章は読みごたえがありました。この本は自然科学の歴史的・哲学的問題を中心に論じていますが、数学・物理学・医学を中心とした複数の事例によって自然科学を論じているために、科学のスタンダードに触れた気がします。もちろん専門にわたる部分は半分も理解できてないと思いますが…
教育学を研究する学生が、なぜ科学のスタンダードに触れてよろこんでいるかというと、教育学と科学の関係に注目するからです。私のホームページにも書いているように、私はもともと教育学の科学化という課題に興味をもっていました。こちらにも書いたように、「科学=普遍的」といった“幻想”に囚われている程度でしたが(あえて今本文は直しません)… それはさておき、佐々木著を読みながら、私は物理学や数学、特に医学の部分を教育学にどうしても置き換えて読まざるを得ませんでした。近代における教育学の科学化を目指した動向は、まぎれもなく存在しますので(日本なら教育科学研究会とか)、読み替える妥当性はあると思います。
佐々木著では、17世紀以降技術発展(産業の機械化とか)に影響されて、自然科学が技術をささえる理論をつくり始めたとされています。19世紀ごろには、科学が技術の構成要素となり、その進展は技術に制限されるようになってしまったといいます。明治以降の日本は、まさにこのような自然科学と技術が融合した「科学技術」を導入していったわけです。この説明は自然科学に関する説明ですが、教育学にも重ね合わせることができます。19世紀、ヘルバルト主義教育学者が教授法いわば教育の技術を積極的に研究し、日本はどんどんこれらを受容していきました。佐々木著では日本の医学者による自然科学の分野における西欧のパラダイムの信奉が描かれていますが、日本の教育学者にもそのような様態が指摘されています。…などなど、読んでいて、この科学史観を日本の教育学史にあてはめるとどうなるのかな、とわくわくしたことを告白しておきます(恥ずかしい!)。もちろん、佐々木著のいちばん言いたいところである、近代科学技術の問題点とその対策について、特に技術が理論を必要としないことを論じた点も考えさせられました。
本著を読んで、今やっている教育会史研究にもいろいろ示唆を受けました。博士論文に反映するといいのですが。また、さらにその先の話ですが、いずれこの視点を利用して、近代日本における教育学の歴史も描きたい!という無謀な野望も(恥ずかしい!)…