教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

読書論(生硬)

2005年09月18日 20時42分02秒 | Weblog
 本論は、読書を効率的に行うための重要な要素は何か、という問題を、興味の視点から論じたものである。
 読書は、いろいろな意味で、自分をより価値ある存在へ高めることにつながる行為である。読書の目的をどこにおくかは個人によって違うとしても、最終的には自分を高めることにつながる。例えば、自分が知りたい知識を得ることは、言うまでもなく博識の地点へ一歩自らを高めることになる。読書は気晴らしであるという人もいる。気晴らしとは、ストレスを発散することであろう。ストレスは、集中力を散漫にし、行為の正確さを引き下げ、行為の質を下げる。つまり、気晴らしの読書であっても、次に行う行動をより質のよいものにしてくれるのであり、自分を高める手助けとなるのである。
 人間は限られた時間の中で生きている。自分を高める機会は無限にはない。だからこそ、より高い質の読書を求めることは意義がある。読書の質とは、ここでは自分を高めることへの貢献の程度である。読書の質を高めるには、その内容を記憶するだけでは十分ではない。より深く、その意味を理解することが必要になってくる。例えば、明治5年の学制は、その年に頒布されたことを記憶することが重要なのではなく、ヨーロッパ近代学制を日本に導入した意味を理解することが重要なのである。限られた時間の中で、読書の質をより高めるには、内容を理解する効率を考えることが重要となるだろう。これを読書の効率性とよぶとしよう。では、読書の効率性を高めるには、どうすればよいのだろうか。
 読書は、その本の内容に対して、興味を持って読むのがよい。興味がある内容には、熱心に取り組むことができ、理解しようと努めることができる。逆に、興味がない内容には、手に取ることすらおっくうで、理解できない部分は棄て置いてしまう。読書する上において棄て置いた内容は、少なからず自分を高める要因を有している可能性は否定できない。あえて簡潔にいえば、読書した内容を棄て置くことは、自分を高める可能性を棄て置くことになる。かつて「この文章は理解できない。それは筆者の悪文のためだ。」と生意気にも言い切った私に、ある教員が「理解できないのは、あなたが理解しようとしていないからではないですか?」とおっしゃったことがある。読書の効率性を高めるためには、理解できないことを自分の問題として、興味がもてない自分を省みる必要がある。興味がなくては、理解しようという努力すら怠ってしまうのだ。
 読書は、自分をより価値ある存在へ、直接間接に高める行為である。我々が限られた時間しか持たない人間である限り、読書した内容をより効率的に深く理解することが重要となる。しかし、理解は、自らの興味の有無濃淡によって規定される部分がある。宗像誠也氏はその著書『教育研究法』(『宗像誠也教育学著作集』第1巻、青木書店、1974年。初版は1950年)にて、「私は、研究者の関心と情熱の向うところが漠然ときまった段階における読書が、最もみのりの多いものだと思う。自分に問題の意識があってこそ読書も身につくのである。」といった。問題意識は興味を生む。逆に興味が問題意識を生むこともある。興味は研究のための読書にも、重要な役割をする。
 読書の効率性を高めるには、興味を持つことに努める必要がある。ただ、ある知識や視点を理解するには、その背景にある知識や視点を理解しなくてはならない。例えば、現代日本の学校体系が6・3・3制を取ることは、戦後の教育改革の展開過程や戦前学校体系の問題、さらにはそれを支持した社会的要求を理解しなくてはならない。興味を持つことは、読書の効率性を高める第一歩に過ぎないのである。
コメント (2)
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