「三つ子の魂百までも」でもお解りになるように、人間は3歳前後(幼少期)までにその人格の基礎が形成されます。パソコンでいうOSが出来上がる時期です。そこに大きな影響与えているのが、お伽噺ではないでしょうか。
しかし、10数年前から(もっと前なのでしょうか)お伽噺から残酷な結末が消えて来たようです。「カチカチ山」や「サル蟹合戦」等の結末が、仲直りの握手と「悪いことをするとこんな酷いことになる」という図式が崩壊しているようです。悪い事をしたら割に合わない程残酷な目に合うというスリ込みが崩壊しているのではないでしょうか。現在問題になっている少年たちの幼少期に「子供には残酷だから」とか言うニアンスで、アレンジされたように記憶しています。
まさに、「運動会で順位を着けない」的な発想ではないでしょうか。その浅はかな発想で数百年の風雨に耐えてきたお伽噺の教訓としていることが崩壊したのです。
確か、進歩的文化人とかいう人種の女性を中心としたグループの1つだったと記憶しています。
社会規範の基礎とも言うべきモノをこの幼少期にスリ込むことで(OSとしてインストールする)、その後、悪い事をした場合「罪悪感」というものが生まれてきていたのです。どんな平気な顔をしていてもその罪悪感はついて回るわけです。しかし、「どんなに悪い事をしても最後は握手」では、その罪悪感は身に付きません。これこそ社会規範の崩壊でしかありません。お伽噺の重要性を強く感じるのです。
しかし、10数年前から(もっと前なのでしょうか)お伽噺から残酷な結末が消えて来たようです。「カチカチ山」や「サル蟹合戦」等の結末が、仲直りの握手と「悪いことをするとこんな酷いことになる」という図式が崩壊しているようです。悪い事をしたら割に合わない程残酷な目に合うというスリ込みが崩壊しているのではないでしょうか。現在問題になっている少年たちの幼少期に「子供には残酷だから」とか言うニアンスで、アレンジされたように記憶しています。
まさに、「運動会で順位を着けない」的な発想ではないでしょうか。その浅はかな発想で数百年の風雨に耐えてきたお伽噺の教訓としていることが崩壊したのです。
確か、進歩的文化人とかいう人種の女性を中心としたグループの1つだったと記憶しています。
社会規範の基礎とも言うべきモノをこの幼少期にスリ込むことで(OSとしてインストールする)、その後、悪い事をした場合「罪悪感」というものが生まれてきていたのです。どんな平気な顔をしていてもその罪悪感はついて回るわけです。しかし、「どんなに悪い事をしても最後は握手」では、その罪悪感は身に付きません。これこそ社会規範の崩壊でしかありません。お伽噺の重要性を強く感じるのです。