社会科学上の不満

政治・経済上の不満のハケ口(左翼出入り禁止)
外交と防衛、歴史と現状についての不満のハケ口。(観念論の方は出入り禁止)

統帥権の干犯

2007-06-22 22:30:41 | 社会常識と教育
 旧軍部(主に陸軍)の幹部が口にした言葉に「統帥権の干犯」なるものがあります。この言葉を最初に口にされた方が前回のblogに書きました知人のご祖父さんだそうです。知人は「なぜ自分の祖父がそんなことを言った」のか調べて見たそうです。時期同じくして私も偶然この問題を調べておりました。話し合って見ますと大体同じような内容でした。
 もともとこの言葉は1920年ごろの満蒙国境を警備していた関東軍の幹部からの発言でした。当時の日本は信じられないことに1945年の終戦まで陸軍と海軍との予算金額は全く同じでした。そのような中、ワシントン軍縮条約、ロンドン軍縮条約と陸海軍双方とも予算を削減されていました。大正時代の軍幹部の日記に「陸軍省に軍人が軍服で通勤しないとは嘆かわしい」との今では信じられない記載があります。戦後生まれの我々には驚愕の文章でした。そのような時代ですから軍縮ができたのでしょう。加藤友三郎総理がロンドン軍縮条約を締結させました。加藤総理は海軍出身でしたので可能だったのでしょう。
 しかし、満蒙国境は違いました。ソ連が軍備を増強していました。急激な増強に当時の関東軍(日本)は脅威を感じます。そして関東軍参謀本部はシュミュレーション(図演)を何度も行ないます。しかしどうしても勝てません。いや負けてしまいます。そこで、本国(日本)へ軍備の増強を訴えるのですが、ロンドン軍縮で海軍が予算を削減したのに陸軍だけの増強は認められないとの返事が返ってきます。
 そこで陸軍は数個連隊で1個師団の編成から1個連隊を削減します。その連隊で
新たに1個師団を編成し、満蒙国境に配備しようとします。しかし政府は削減だけを受け入れ増派は行いませんでした。そこでこの有名なフレーズが出てくるのです。「国防に関する限り統帥権は独立している」と、それがいつの間にか「統帥権の干犯」になり使い方も適当になっていきました。孟子の「君子厨房に近づかず」がいつの間にか「男子厨房に立たず」と変わるように曲学亜生の徒により意味を捻じ曲げられました。
 これらの曲学亜生の徒により、後にノモンハンの事件(帝国陸軍がボロ負け)でその敗戦を隠さねばならず、なぜ負けたのかの研究さえ行なわれませんでした。
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富田メモから

2007-06-22 09:40:54 | 社会常識と教育
申し訳ありません。昨日は帰宅が0時を超えてしまいましたので、blogが書けませんでした。

 富田メモの中での昭和天皇の発言は衝撃的なものがありました。私はこの富田侍従長と仲の良かった方(警察庁時代の先輩後輩の関係にある)と親しくさせていただいています。
富田メモの内容(概略)は新聞発表の数年前に聞きおよんでいました。そこで、「松岡や白川までもが」と言う昭和天皇の発言は、靖国神社に戦死者でもまして軍人でもない方が合祀されていることへの疑問から出た発言とばかり考えていました。原理主義の昭和天皇らしい考えと思っていました。しかし、別の理由があるのではとある時思うことがありました。
それはイスラエルの大使が昭和天皇に着任の挨拶にきたときの昭和天皇の発言です。
「われわれ日本人はあなた方への恩義を忘れることはありません」と言うものです。当のイスラエル大使も何のことか分からず大使館へ戻り調べます。すると自分がクーン・ローブ商会に関係する者であること、明治天皇を尊敬する昭和天皇は日露戦争時に戦費を用立てたクーン・ローブ商会に対して「恩義を忘れない」という意味だと気づき、100年近く前の「恩義を忘れない」と言うことに感激したそうです。
 そこで、「松岡や白川までもが」と言う発言もただ原理主義的な感情からでた発言とは思えなくなり、調べたところ、「満州ユダヤ協和国」通称「フグ計画」に行当りました。
これは満州にユダヤ人の共和国を作ろうとした計画です。1939年満蒙国境に25000人のユダヤ人亡命が求めたことに端を発します。樋口季一郎少将(後中将)がこのユダヤ人を救出します。ドイツからの外交ルートを通じたクレームを当時の日本は毅然と撥ね付けます。
当時の満州や中国大陸の日本人租界はユダヤ人に対し世界で稀な門戸を開いていました。この後陸軍の安江大佐や海軍の犬飼大佐らが満州にユダヤ共和国を作ろうと動きます。
当時日本はABCD包囲網の中、石油をはじめとした戦略物質の輸入が出来なくなっていました。「油のための戦争か」と太平洋戦争を嘆いた軍幹部も多数いたぐらいです。その中このユダヤ人人脈を利用し日本は、数億円のクレジットと数年分の原油とをアメリカとの契約で内定を得ます。もちろんアメリカにも同じユダヤ財団のサッスーン商会を中心とした反対勢力もありました。しかし、これらの反対勢力を抑え数億円のクレジットと数年分の原油とをアメリカとの契約で内定を得ます。近衛首相をはじめ当時の内閣はこれに協力てきでした。当然、昭和天皇の耳にも入っていたと推測できます。
 これが日独伊三国軍事同盟締結で一夜にして崩壊してしまいました。英国留学の経験があり親英派の昭和天皇にすれば驚愕したことでしょう。昭和天皇は英国留学により立憲君主制の元首はどう行動すら学びますから、ジレンマに陥ったことでしょう。
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