旧軍部(主に陸軍)の幹部が口にした言葉に「統帥権の干犯」なるものがあります。この言葉を最初に口にされた方が前回のblogに書きました知人のご祖父さんだそうです。知人は「なぜ自分の祖父がそんなことを言った」のか調べて見たそうです。時期同じくして私も偶然この問題を調べておりました。話し合って見ますと大体同じような内容でした。
もともとこの言葉は1920年ごろの満蒙国境を警備していた関東軍の幹部からの発言でした。当時の日本は信じられないことに1945年の終戦まで陸軍と海軍との予算金額は全く同じでした。そのような中、ワシントン軍縮条約、ロンドン軍縮条約と陸海軍双方とも予算を削減されていました。大正時代の軍幹部の日記に「陸軍省に軍人が軍服で通勤しないとは嘆かわしい」との今では信じられない記載があります。戦後生まれの我々には驚愕の文章でした。そのような時代ですから軍縮ができたのでしょう。加藤友三郎総理がロンドン軍縮条約を締結させました。加藤総理は海軍出身でしたので可能だったのでしょう。
しかし、満蒙国境は違いました。ソ連が軍備を増強していました。急激な増強に当時の関東軍(日本)は脅威を感じます。そして関東軍参謀本部はシュミュレーション(図演)を何度も行ないます。しかしどうしても勝てません。いや負けてしまいます。そこで、本国(日本)へ軍備の増強を訴えるのですが、ロンドン軍縮で海軍が予算を削減したのに陸軍だけの増強は認められないとの返事が返ってきます。
そこで陸軍は数個連隊で1個師団の編成から1個連隊を削減します。その連隊で
新たに1個師団を編成し、満蒙国境に配備しようとします。しかし政府は削減だけを受け入れ増派は行いませんでした。そこでこの有名なフレーズが出てくるのです。「国防に関する限り統帥権は独立している」と、それがいつの間にか「統帥権の干犯」になり使い方も適当になっていきました。孟子の「君子厨房に近づかず」がいつの間にか「男子厨房に立たず」と変わるように曲学亜生の徒により意味を捻じ曲げられました。
これらの曲学亜生の徒により、後にノモンハンの事件(帝国陸軍がボロ負け)でその敗戦を隠さねばならず、なぜ負けたのかの研究さえ行なわれませんでした。
もともとこの言葉は1920年ごろの満蒙国境を警備していた関東軍の幹部からの発言でした。当時の日本は信じられないことに1945年の終戦まで陸軍と海軍との予算金額は全く同じでした。そのような中、ワシントン軍縮条約、ロンドン軍縮条約と陸海軍双方とも予算を削減されていました。大正時代の軍幹部の日記に「陸軍省に軍人が軍服で通勤しないとは嘆かわしい」との今では信じられない記載があります。戦後生まれの我々には驚愕の文章でした。そのような時代ですから軍縮ができたのでしょう。加藤友三郎総理がロンドン軍縮条約を締結させました。加藤総理は海軍出身でしたので可能だったのでしょう。
しかし、満蒙国境は違いました。ソ連が軍備を増強していました。急激な増強に当時の関東軍(日本)は脅威を感じます。そして関東軍参謀本部はシュミュレーション(図演)を何度も行ないます。しかしどうしても勝てません。いや負けてしまいます。そこで、本国(日本)へ軍備の増強を訴えるのですが、ロンドン軍縮で海軍が予算を削減したのに陸軍だけの増強は認められないとの返事が返ってきます。
そこで陸軍は数個連隊で1個師団の編成から1個連隊を削減します。その連隊で
新たに1個師団を編成し、満蒙国境に配備しようとします。しかし政府は削減だけを受け入れ増派は行いませんでした。そこでこの有名なフレーズが出てくるのです。「国防に関する限り統帥権は独立している」と、それがいつの間にか「統帥権の干犯」になり使い方も適当になっていきました。孟子の「君子厨房に近づかず」がいつの間にか「男子厨房に立たず」と変わるように曲学亜生の徒により意味を捻じ曲げられました。
これらの曲学亜生の徒により、後にノモンハンの事件(帝国陸軍がボロ負け)でその敗戦を隠さねばならず、なぜ負けたのかの研究さえ行なわれませんでした。