東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

桶狭間

2023-04-28 | 歴史散歩



桶狭間古戦場は名古屋市内にある
1560年織田信長の奇襲が今川義元を討ち取った
3千人の弱小大名が2万5千人の大軍を破った
一点集中攻撃
これは奇蹟だった
あまりにも有名な話

人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり ・・・
ここから大転換する
封建時代から近代に至る激動の起点だ

それにしても桶狭間は近所の公園のようだ
都心に古戦場がある
宅地化が進み痕跡を探すのは難しくなる
バイクで名古屋市内をうろつきながら探索する
それでも桶狭間に来た
信長の意識が吹きかかってくる

織田信長と今川義元の像



信長の奇襲進撃図







義元の本陣は少し離れた丘にあった


公園近くに少しの畑地があった
昔の雰囲気を感じる


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松下村塾はスーパー町内会塾

2023-04-09 | 歴史散歩

萩城下武家屋敷


萩市街図

山口県萩市は毛利藩の城下町だった。ずいぶん前に読んだが松下村塾のことは司馬遼太郎の小説「世に棲む日々」に詳しい。司馬遼太郎の小説は歴史書ではなく、司馬史観といわれ、時には脱線し事実と異なることも多いと批判されるが、吉田松蔭が教えた松下村塾からは、幕末から明治にかけて偉人といわれる人物を傑出しているのは事実だろう。それも多数の精鋭を生み出している。


高杉晋作生誕地


木戸孝允生誕地

門下生には維新直前の長州をリードした久坂玄瑞、奇兵隊を率い幕府軍の権威を打ち砕いた高杉晋作、維新後に明治政府の富国強兵を実行して、日本を欧米に対抗できる段階まで築き上げた伊藤博文や山県有朋などが有名だ。また木戸孝允も同時代に萩在住だった。

萩城下を歩くと久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允の家はすぐ近くにあり、少し離れた山の手には吉田松蔭と伊藤博文の生誕の地があり、山県有朋はその中間の地で生まれた。彼らの生誕の地や家は距離にして2km程度の範囲にあり、歩いても20分か30分のご近所さんだ。
例えていえば、自分が生まれ故郷の町で、伝え聞いた稀代の秀才と呼ばれる若い先輩が最近の凄い話をするようだぞと、幼なじみの悪ガキ仲間が連れ立ってあばら家に話を聞きに行ったようなものだ。



松下村塾


松下村塾




松下村塾は吉田松蔭の家の近くで開かれた。吉田松蔭は秀才の誉れ高く、僅か11歳で当時の毛利藩主に対して御前講義を申し上げたそうだ。今で言えば小学5、6年生が殿様に講義したことになる。松下村塾は松蔭が二十代のとき、ほんの1、2年の短期間だけ講義しただけだが、その影響力は中途半端ではなかった。明治維新を成し、日本を作り上げた。もちろん維新と明治は塾生だけでなく数多くの優秀な人材が集まり必死になって新しい日本を作り上げたのは言うまでもないが、その中心となったことは間違いない。

大学で講義をしてもこんなに学生を自発的に動かす影響力のある教授はいないだろう。教える人はまず信念を持った実践者でなければならない。本人は教えるつもりではなく、話をしている背景を伝えているのだ。思想の基本となる核心を話しているのだ。実践が基本で心技一体となり、自分のからだを動かしながら、言葉が溢れ出るのだ。余談を言えば、科研費獲得が全てではないのだ。

塾に来る人は、自分の行動原理を模索しているのだ。世の中の動きを見極めて、自分のこれからのこと、目の前の最も近い未来の行動を、模索しながらも納得し確固たるものにしたいのだ。

山口県萩市は日本海側にあり、山に囲まれた孤立した町だ。明治維新まで持ちこたえて長州が生き残ったのは奇跡だ。時代の流れと暗殺の闇を潜り抜けて実行したのは奇跡だ。その中で、松下村塾という1年か2年程度の極短期間で、歩いて30分ほどの狭い範囲の、言わばスーパー町内会の塾から掛け替えない多くの人材を生み出し生き残ったのは、幸運な奇跡が重なっていたという他ない。それは単に教育というよりも、その人がいてその行動が基点となり熟成されたからだ。これが本当の教育だろう。





松蔭誕生の地から萩市街を望む
指月山が見える


ところで当日は吉田松蔭の墓地にも行った。まさにその現地で、見覚えのある女性と遭遇した。我那覇真子さんだ。彼女はフリーのジャーナリストで、日本では数少ないまともな人材だ。米国の大統領選挙の不正問題を追求していたジャーナリストとしてその行動力は抜きん出ていた。日本の新聞、テレビなど腐り切ったマスコミの中で、彼女は真のジャーナリストの1人だ。吉田松蔭、久坂玄瑞、高杉晋作が眠る墓地の前で偶然にも出会った。ボクがバイクで帰ろうとしていたところ、彼女の運転する車が隣に停車した。米国のジャーナリストを案内している途中とのことだ。日本の国防関連の取材だそうだ。我那覇さんに申し上げた。応援しています、フリーの立場で大変でしょう、圧力に負けずに頑張ってくださいとエールを送った。



吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作の墓がある
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萩の桜 指月山

2023-04-07 | 歴史散歩

山口県萩市
萩港より指月山(しづきやま)を望む
標高は143m
遠くからは高度観がある

先週の萩城趾は桜が満開だった
指月山は萩城の一部で山頂には詰丸が築かれ監視台の役割を果たす


萩城趾の桜

山頂までは登り約15分
少し呼吸が荒くなったが丁度いい運動でした


広葉樹林帯常緑樹のいい山道です

指月山(標高143m)山頂から萩城下を見る
松下村塾はここにあった
この山あいの街から数多くの明治維新の偉人を生み出した


指月山山頂から西方海岸を見下す


萩城趾の堀と指月山
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秀吉の一夜城

2022-12-31 | 歴史散歩

小田原石垣山城




小田原市街を望む


2022年11月に原子核工学科の同期会があり箱根に集った。コロナ禍が気になる人がまだかなり存在し、3年越しの同期会で箱根に来たのは通常の半数だったが、懐かしい面々と楽しいひとときを過ごした。

当日、宿に入る前に皆さんと一緒に小田原城と石垣山を見物した。豊臣秀吉(1537年生1598年没)の小田原石垣山の一夜城は有名な話だ。

1590年(天正18年)、秀吉の小田原攻めでは小田原城に対面する石垣山に砦を築き、白紙を張って白壁のように見せかけ完成後一夜のうちにそれをはがし、小田原方の度肝を抜いたといわれる。実際には1590年4月から6月まで約80日間で築いたそうだ。豊臣秀吉は1537年生1598年没なので53歳の絶頂期にあった。この時、徳川家康の関東への転封を指示し、伊達政宗の恭順の参上を受けた。


墨俣城


墨俣一夜城

木曽川

墨俣流域



墨俣城


さて、秀吉の一夜城といえば、墨俣(すのまた)の一夜城がこれまた有名だ。大河ドラマの太閤記や戦国物で何度も放映されるので、歴史好きの方には食傷気味かも知れぬが、現地に行くとなるとなかなか機会には恵まれない。
 
今回はバイク旅行で深谷、箱根、十里木、浜岡、天竜川、南アルプス界隈を巡った流れで、岐阜と三河に行き、大垣の墨俣まで足を伸ばした。その後は予定通り、名古屋からフェリーで仙台へ戻った。

木下藤吉郎が指揮しこの地に墨俣一夜城といわれる砦を築いたのは1566年、29歳のとき、小田原一夜城の24年前のことだ。
織田信長の美濃攻めの折り29歳の藤吉郎は抜擢され、墨俣の一夜城を築き、出世街道を駆け上り53歳の小田原攻めで天下統一を果たすことになる。

現在、墨俣には城郭があるが、当時の藤吉郎の墨俣城は、城というより柵に囲まれた砦そのものであるが、砦の作成過程がなるほどと合点がいくもので、上流の木曽川から材木を流しておき、長良川沿いの墨俣付近に集結させ、兵は別ルートで墨俣へ行き、そこで3日間ほどで砦を築いたといわれる。

柵で囲まれた砦を造るポイントとなるのは、当時の木曽川と長良川の合流点付近は、現在のように河川の堤防が整備されておらず、氾濫原のように河川が入り交じって流れていたこと、6月の雨期で水量も多く、材木を下流の目的地へ流すことができたのだとやっと理解できた。


良いお年を!




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壬生寺と新撰組

2022-12-08 | 歴史散歩
壬生寺は四条大宮の近くにある







壬生寺は由緒正しい歴史がある
鑑真和上991年正暦2年とのこと

壬生寺といえば新撰組で有名だが、当時、壬生寺の境内を新撰組が隊士の訓練に使っていたことに、お寺は迷惑していたと寺の歴書に記されている





三橋美智也の「あゝ新撰組」
驚いたことに一番はメロディも歌詞も覚えていて暗唱できる
幼いころのラジオ放送などで刷り込まれていたのだ













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渋沢栄一記念館 血洗島

2022-11-18 | 歴史散歩

バイクで深谷まで








渋沢栄一記念館は埼玉県深谷市血洗島にある。

血洗島とは物騒な地名だが古事、戦記、アイヌ由来の説などがあるらしい。

渋沢栄一は明治維新後の資本主義の父と呼ばれ、500社以上の設立運営に携わったそうだ。明治9年(1876年)、平野富二の石川島平野造船所(現:IHI、いすゞ自動車、立飛ホールディングス)に対し個人出資や第一国立銀行の融資で創業を支援したそうだ(Wikipedia)。

記念館にはこの造船所の初代会長だったと表示されている。ボクも同社に長年勤務していたので、大先輩かつ恩人なのだ。




生家への案内



当日は近くの東松山に宿泊


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子規の格闘

2022-11-14 | 歴史散歩
四国 松山城



松山城
「坂の上の雲」 ロケ地


正岡子規は俳句で新しい世界を築き上げ、結核と格闘し34歳の生涯を閉じた。
今回、バイクでの四国駆け足の旅では松山城で子規を偲び、帰りの途中で奈良の法隆寺に立ち寄った。

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 (子規)

あまりにも有名な句であるが、恐れ多いことながら素人の感想だが、子規の作でなければ駄作として埋もれていたかも知れぬ。子規は文字通り血を吐きながら古都奈良の旅を続けた。その背景と旅の重みを知ると、もの凄い生命の叫びが怒濤のように響いてくる。生の一瞬の輝きがそこにある。


奈良 法隆寺


法隆寺 五重塔



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島原の乱とオリンピック

2022-02-17 | 歴史散歩

原城跡 
長崎県南島原市 海岸沿いの小高い丘の上にある


天草四郎(益田四郎時貞) 原城跡





 島原の乱は島原天草一揆といわれ、島原や天草の一帯で重税と宗教弾圧に反発して一揆を起こした。乱は寛永14年(1637年)12月に勃発し寛永15年(1638年)4月に終結した。天草四郎がシンボル的なリーダーとなり原城に籠城し、キリスト教信徒3万人以上が虐殺され全滅した。時は3代将軍家光の時代で徳川幕府が安定期に入っていたころだ。
 
 原城跡でバイクを止めていると、地元の人に話しかけられ、隠れキリシタンに話題がおよんだ。「キリシタンは長崎方面へ行き五島(列島)など島へ逃れたよ」と伺った。
キリシタン禁教は明治6年1873年まで続いた。それも欧米列強の圧力があって始めて信仰の自由が認められた。その後、驚いたことに五島列島では津々浦々に50もの教会が作られた。五島列島はキリスト教徒が耐え忍んだ歴史のある島なのだ。
 

 さて冬季オリンピックは北京で開催されている。中国はチベットの仏教徒、ウイグルのイスラム教徒など100万人単位で弾圧を加えている。欧米の民主主義国家は証拠を掴んでおり議会で反対決議を全会一致で採択し政治的ボイコットをしている。日本は親中国の議員が多く足並みが揃っていない。内政干渉というレベルではないことは明白だ。1936年のベルリンオリンピックはナチスドイツのプロパガンダに利用された。
 オリンピック委員会やWHOなどは金の力に弱くうんざりするレベルだ。日本の企業ではユニクロ、ニトリ、パナソニックなどは氷山の一角らしい。NHKなどマスコミは東京オリンピックはコロナ禍を扇動し葬式のような報道していながら、北京オリンピックでは明るくはしゃいでいるらしい。
 
 ということで、今回のオリンピック報道はニュースに紛れ込んだものが目に入る以外は全く見ていない。少なくとも民主主義国家の一員です。ささやかな抵抗だ。オリンピックを見る暇があれば、そのごく一部の時間でもチベットやウイグルの惨状を検索して事実を知ろう。

下五島 堂崎教会

堂崎教会は下五島の北西部にある




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学問のすすめと志

2022-01-01 | 歴史散歩

大日本帝国憲法の署名

 大日本帝国憲法は明治22年(1889)2月11日に公布された。これは法治国家としての基盤を欧米列強に示し、近代国家の仲間入りするための議会制度などを含み、治外法権などの不平等条約改定に進むため急いで構築した明治日本の憲法である。

 明治天皇の詔書には黒田清隆や伊藤博文などとともに逓信大臣榎本武揚の名前がある。榎本は戊辰戦争の函館での戦いで幕府方のリーダーとなり、敗戦後は獄中にいた。総理大臣となった黒田清隆は箱館戦争では官軍側にいた。獄中にいた榎本武揚や大鳥圭介などの助命嘆願をおこなったのは黒田清隆らだという。
 
 旧幕府側の逆臣でも能力のある人材は維新後であっても生かされた。榎本武揚や大鳥圭介は一度は捨てた己の命をその後の新しい日本を作るために生かした。その尽力と貢献は凄いものだ。
 
 特に若い人に伝えたいことは、若いうちは学問に勤しみ、同時に志を持ち続けることだ。


江差港の開陽丸

榎本武揚と開陽丸

開陽丸記念館

江差港
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大鳥圭介と研究者 猪尾守之さんと中川由香さん

2021-12-23 | 歴史散歩
いきいき交流ふるさと館(兵庫県赤穂郡上郡町 大鳥圭介生家跡)

 先日は上郡(かみごおり)の大鳥圭介生家跡を訪問した。カミさんと一緒に行ったところ思いもかけず大歓迎された。いきいき交流ふるさと館の大鳥圭介塾塾長の猪尾守之さんから生の資料の丁寧な説明を受け、その上、パワーポイントプロジェクターを使用した1時間ほどの講義も受けた。多くのエネルギッシュなスタッフの皆さんの歓迎のおもてなしに感謝感激した。帰り際にはボクの体は大鳥圭介でいっぱいに満ち溢れるほどになった。

 大鳥圭介の人物像は幕末から明治にかけての偉人で知る人ぞ知るだが、意外に知られていないことが多い。1832年(天保3年)生まれで1911年(明治44年)没。幕臣として歩兵奉行を務め伝習隊を組織し、戊辰戦争では江戸城から逃れ、北関東から会津へと転戦し、仙台も経由し函館五稜郭に至り、五稜郭で降伏後は捕らえられて牢獄に3年間入った。
 江戸から五稜郭に至る間、土方歳三は組織上は大鳥圭介の配下にあったようだ。司馬遼太郎の「燃えよ剣」は小説とはいえ司馬史観に基づく土方の英雄視が強すぎるのではないかとのこと。
 大鳥圭介は出獄後に欧米の産業視察と外債募集を行い、工部大学校(東大工学部の前身)校長、学習院院長、華族女学校校長、清国在勤特命全権公使、朝鮮国公使などを歴任した。大鳥圭介は明治以降の技術系の基礎を作ったと言っても過言ではない。

 さて、大鳥圭介のことを知るに至ったのは明治維新の直後、淡路島の洲本から北海道日高地方の静内に家老の稲田氏ほか一族が入植したことにボクが興味を持ったことから始まる。その過程で中川由香さんというアマチュアの大鳥圭介の研究者をSNS上で知った。そのブログで彼女はバイク旅行で北海道の静内に立ち寄ったとき、静内は馬の生産地として有名になったが、もともと静内地方は淡路島からの入植者が開拓してきたことに驚いたと記していた。彼女は淡路の洲本市出身で開発途上国の前線にいてエネルギー問題に関する実務が本業のようだ。現在は大鳥圭介の栃木から会津、北海道の木古内や函館の戦歴調査をしているそうだ。凄いなあ!

 いきいき交流ふるさと館塾長の猪尾守之さんは京都大学の物理出身、湯川秀樹先生門下で卒業後は住友ゴムに勤務し、定年退職後に地元上郡出身の大鳥圭介を知り調査研究にのめり込み10年以上経過したとのこと。

 大鳥圭介は幼少から青年期にかけて漢学、蘭学、兵術、英語などありとあらゆることに興味を持ち、勉学に勤しんだ。悪ガキが勉学によって成長した。それが知識のみに止まらず実学として血肉化し行動となった。
 
 人間到るところ青山あり! ですね。

大鳥圭介 産湯の井戸


大鳥圭介の出身地 兵庫県上郡町


上郡町役場 大鳥圭介像
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