個人的評価: ■■■■■□
[6段階評価 最高:■■■■■■(めったに出さない)、最悪:■□□□□□(わりとよく出す)]
【反黒澤作家としての西川美和が描く現代のどす黒い「赤ひげ」】
西川美和監督の新作「ディア・ドクター」を観ていると、黒澤明監督の「赤ひげ」を思い出す場面がそこかしこにあった。
しかし、「ディア・ドクター」は「赤ひげ」を現代に置換えただけの映画ではない。むしろ「赤ひげ」が遠い過去の産物になってしまったことを印象付ける映画である。
時間外の訪問医療をする設定。青年医師がやがて老医師の後を継ごうとする物語。などなど「赤ひげ」との類似点をいくつか見つけることはできる。
しかしながらヒューマニズムなき現代の僻地医療を扱う本作は、ヒューマニズムの結晶だった「赤ひげ」になるはずもなく、全く別の映画へと変質していく。
******
「フン、お前はわしを怒鳴らせたいのか」
「怒鳴ってもかまいません、力づくでも、私は養生所に残ります」
「誰が許した!」
「先生です、先生は私に医者はどうあるべきかを教えてくださいました・・・だから私は、その道をゆきます」
******
「赤ひげ」のラストシーンにおける、名会話である。
これと同じような意味の会話を、「ディア・ドクター」の中盤で青年医師と老医師が交わす。まるで現代版「赤ひげ」のごとく
「赤ひげ」では上記の会話は以下の様に締めくくられる
******
「後悔するぞ」
「お許しが出たんですね!」
「もう一度言う、お前は後悔するぞ」
******
だが「ディア・ドクター」の会話の締めくくりは、話を聞こうとしない青年医師に老医師が「上司の愚痴ぐらい聞けるようになれ」と言う。
「赤ひげ」では、誰かがしゃべりだすと周りの人間は、時々うんうんと頷きながら静かに相手の話を聴く。(黒澤映画にありがちな演出である)
「赤ひげ」(に限らず黒澤映画はいつも)では「話す、聴く」というコミュニケーションが基本的に成立している。話をさえぎってしゃべりだしたり、相手の話を全く聞かず、見当違いの受答えをするという場面は、ギャグシーンくらいでしかお目にかかれない。
ここには基本的には相手を敬ったり(敵なら畏怖し)、他者に関心を持ち理解しようと努める、映画の作り手の思想が現れている。
対して「ディア・ドクター」では、もっとも基本的な「話す、聴く」のコミュニケーションすら成立していない。
みなの関心は自分のことだけで、村民は伊野医師の話に耳を傾けない。「彼が来てくれたおかげで私や村の皆が助かっている」という都合のいい事実があればよく、伊野医師の話に耳を傾けようとしない
青年医師にしても、伊野医師の話を聴こうとしていない・・・ことにすら気づいていない。
珍しく伊野医師が自分の本心を打ち明けても、彼は話を聴かずに受け流してしまう。僻地医療にこそ医療のあるべき姿があるという「大発見」に酔いたいだけなのだ。
伊野医師はもちろん本心を打ち明けることはめったに無い。本作で本心を吐露するのは青年医師に対してと、電話での父に対しての2回だけ。2回とも相手にメッセージは届かない。
そんな伊野医師にとって、村人たちが自分に本心を打ち明けてくれる姿には、何とも言えない感動があったのは想像に難くない。
皆が信じてくれる、頼ってくれる、感謝してくれる、その感動に浸りたいがために嘘をつき続ける医師。
人道主義と、人と人との信頼関係に根ざした「赤ひげ」医療はもはや、メルヘンでありファンタジーである。赤ひげ先生は現代にはもういない。
医療のありかたへの問題提起とともに、そしてコミュニケーション不全を起こしている現代社会への警句が本作にある。
素朴さの溢れる田舎を賛美する映画にはせず、「ゆれる」もそうであったように、付き合いが密なはずの田舎において人々の嘘と無関心をより鮮明に見せるところに作者の人間観を見て取れる
ヒューマニズムで感動できるドラマを作れるほど、現代人の心はきれいじゃない。最終的に人は信じられるという黒澤映画に対して、結局人は信じられないという西川映画。
裏黒澤、反黒澤作家のごとき、ここ2作。
西川美和監督が黒澤映画を好きなのか嫌いなのかは知らないが、そういえば前作「ゆれる」はオダギリジョーの「1人羅生門」な雰囲気もあったっけ。
もしかすると次回作は、誘拐犯を許す話だっり、豪農を襲うため侍を雇う野武士の話だったり、二人の用心棒を争わせる組織の話だったりするかもしれない。
【音の使い方】
黒澤明といえば、サウンド使いに関しては世界で五指に入る達人であった。
西川監督は黒澤ほどではないにしても、サウンドへの心配りが随所に感じられ、現代日本の監督ではもっとも「サウンドマスター」の称号に近い方だと思う。
最近見たある日本映画では、サウンドへの配慮が何もなくプロの監督がこの程度のサウンドの使い方でいいのかと幻滅した覚えがある。その監督は撮影中のカットに映り込むものの音しか考えていなかった。
そうしたカットしか見ない監督と違い、西川監督はきちんと「カット外の音」、「カット外の人物が聞く音」を映画に取り込む。カットだけでなく映画全体を観ている証拠だ。
・事故をおこした青年医師の車からなり続けるポップミュージック。
・その車のクラクションを鳴らして遊ぶ子供達とその音に気が気でない青年医師。
・肺に空気が溜まり苦しむ患者の呼吸音。
・落語のカセットが止まるのを聴いて起き出し、カット外の母の様子を見守る娘。
・診察室に残る老婦人の娘が聞く逃げ出した医師のバイクの音。
・老婦人が闇の中に聞くバイクの音。
モンタージュを音が滑らかに連結している。これほど音を撮れる監督が他にいるだろうか。
前作「ゆれる」の音使いも見事であったが、本作でさらに「サウンド使い」の技術に磨きをかけている。これからも音の巧さに注目していきたい。
【脚本について】
「ディア・ドクター」の脚本は作劇的にとても巧いと思う。
医師と村人たちの交流を淡々と描くだけではたちまちドラマへの興味が薄れてしまうだろう。だがそこに「医師の失踪」というもう一軸を建てることで地域医療シーンでもドラマへの関心は弱まらない。
過去のシーンと現在のシーンも単に交互に進むのではなく、それぞれ関連する出来事や人物をきっかけにして物語は時間を飛び越えるので、感情移入が寸断されることも無い。
少なくともライターとしては非常に才能のある方なのだとわかる。
ただ、欲を言えば、瑛太演じる青年医師の心の変化は描いてほしかった。彼の地域医療に医療の理想を見たという感動は物語上は判るのだけど、彼の興奮は全く伝わってこない。
とは言え、「話を聞いているようで聴いていない、人を見ているようで観ていない彼」の目線でドラマを運ぶと、本作のテーマがぶれそうだとは思う。
【好きなシーン】
鶴瓶師匠と余貴美子がアイコンタクトで肺の空気を抜く応急処置をするシーン。映像はアップの切り返しによって緊張感がみなぎっているのだが、同時に笑わずにはいられない楽しいシーン。お二方とも見事な演技でした。
【追記・・・下世話な話】
西川美和さんは、写真を見る限り、なかなかの美人である。才色兼備の典型例と言って良いと思う。
私のイチオシの横浜聡子監督は美人じゃないが才能なら負けてないハズだ。ガンバレ。と余計なお世話。
美人でもそうでなくても、女性監督の躍進めざましいのが2000年代の日本映画の特長。いい傾向だと思う。
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【反黒澤作家としての西川美和が描く現代のどす黒い「赤ひげ」】
西川美和監督の新作「ディア・ドクター」を観ていると、黒澤明監督の「赤ひげ」を思い出す場面がそこかしこにあった。
しかし、「ディア・ドクター」は「赤ひげ」を現代に置換えただけの映画ではない。むしろ「赤ひげ」が遠い過去の産物になってしまったことを印象付ける映画である。
時間外の訪問医療をする設定。青年医師がやがて老医師の後を継ごうとする物語。などなど「赤ひげ」との類似点をいくつか見つけることはできる。
しかしながらヒューマニズムなき現代の僻地医療を扱う本作は、ヒューマニズムの結晶だった「赤ひげ」になるはずもなく、全く別の映画へと変質していく。
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「フン、お前はわしを怒鳴らせたいのか」
「怒鳴ってもかまいません、力づくでも、私は養生所に残ります」
「誰が許した!」
「先生です、先生は私に医者はどうあるべきかを教えてくださいました・・・だから私は、その道をゆきます」
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「赤ひげ」のラストシーンにおける、名会話である。
これと同じような意味の会話を、「ディア・ドクター」の中盤で青年医師と老医師が交わす。まるで現代版「赤ひげ」のごとく
「赤ひげ」では上記の会話は以下の様に締めくくられる
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「後悔するぞ」
「お許しが出たんですね!」
「もう一度言う、お前は後悔するぞ」
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だが「ディア・ドクター」の会話の締めくくりは、話を聞こうとしない青年医師に老医師が「上司の愚痴ぐらい聞けるようになれ」と言う。
「赤ひげ」では、誰かがしゃべりだすと周りの人間は、時々うんうんと頷きながら静かに相手の話を聴く。(黒澤映画にありがちな演出である)
「赤ひげ」(に限らず黒澤映画はいつも)では「話す、聴く」というコミュニケーションが基本的に成立している。話をさえぎってしゃべりだしたり、相手の話を全く聞かず、見当違いの受答えをするという場面は、ギャグシーンくらいでしかお目にかかれない。
ここには基本的には相手を敬ったり(敵なら畏怖し)、他者に関心を持ち理解しようと努める、映画の作り手の思想が現れている。
対して「ディア・ドクター」では、もっとも基本的な「話す、聴く」のコミュニケーションすら成立していない。
みなの関心は自分のことだけで、村民は伊野医師の話に耳を傾けない。「彼が来てくれたおかげで私や村の皆が助かっている」という都合のいい事実があればよく、伊野医師の話に耳を傾けようとしない
青年医師にしても、伊野医師の話を聴こうとしていない・・・ことにすら気づいていない。
珍しく伊野医師が自分の本心を打ち明けても、彼は話を聴かずに受け流してしまう。僻地医療にこそ医療のあるべき姿があるという「大発見」に酔いたいだけなのだ。
伊野医師はもちろん本心を打ち明けることはめったに無い。本作で本心を吐露するのは青年医師に対してと、電話での父に対しての2回だけ。2回とも相手にメッセージは届かない。
そんな伊野医師にとって、村人たちが自分に本心を打ち明けてくれる姿には、何とも言えない感動があったのは想像に難くない。
皆が信じてくれる、頼ってくれる、感謝してくれる、その感動に浸りたいがために嘘をつき続ける医師。
人道主義と、人と人との信頼関係に根ざした「赤ひげ」医療はもはや、メルヘンでありファンタジーである。赤ひげ先生は現代にはもういない。
医療のありかたへの問題提起とともに、そしてコミュニケーション不全を起こしている現代社会への警句が本作にある。
素朴さの溢れる田舎を賛美する映画にはせず、「ゆれる」もそうであったように、付き合いが密なはずの田舎において人々の嘘と無関心をより鮮明に見せるところに作者の人間観を見て取れる
ヒューマニズムで感動できるドラマを作れるほど、現代人の心はきれいじゃない。最終的に人は信じられるという黒澤映画に対して、結局人は信じられないという西川映画。
裏黒澤、反黒澤作家のごとき、ここ2作。
西川美和監督が黒澤映画を好きなのか嫌いなのかは知らないが、そういえば前作「ゆれる」はオダギリジョーの「1人羅生門」な雰囲気もあったっけ。
もしかすると次回作は、誘拐犯を許す話だっり、豪農を襲うため侍を雇う野武士の話だったり、二人の用心棒を争わせる組織の話だったりするかもしれない。
【音の使い方】
黒澤明といえば、サウンド使いに関しては世界で五指に入る達人であった。
西川監督は黒澤ほどではないにしても、サウンドへの心配りが随所に感じられ、現代日本の監督ではもっとも「サウンドマスター」の称号に近い方だと思う。
最近見たある日本映画では、サウンドへの配慮が何もなくプロの監督がこの程度のサウンドの使い方でいいのかと幻滅した覚えがある。その監督は撮影中のカットに映り込むものの音しか考えていなかった。
そうしたカットしか見ない監督と違い、西川監督はきちんと「カット外の音」、「カット外の人物が聞く音」を映画に取り込む。カットだけでなく映画全体を観ている証拠だ。
・事故をおこした青年医師の車からなり続けるポップミュージック。
・その車のクラクションを鳴らして遊ぶ子供達とその音に気が気でない青年医師。
・肺に空気が溜まり苦しむ患者の呼吸音。
・落語のカセットが止まるのを聴いて起き出し、カット外の母の様子を見守る娘。
・診察室に残る老婦人の娘が聞く逃げ出した医師のバイクの音。
・老婦人が闇の中に聞くバイクの音。
モンタージュを音が滑らかに連結している。これほど音を撮れる監督が他にいるだろうか。
前作「ゆれる」の音使いも見事であったが、本作でさらに「サウンド使い」の技術に磨きをかけている。これからも音の巧さに注目していきたい。
【脚本について】
「ディア・ドクター」の脚本は作劇的にとても巧いと思う。
医師と村人たちの交流を淡々と描くだけではたちまちドラマへの興味が薄れてしまうだろう。だがそこに「医師の失踪」というもう一軸を建てることで地域医療シーンでもドラマへの関心は弱まらない。
過去のシーンと現在のシーンも単に交互に進むのではなく、それぞれ関連する出来事や人物をきっかけにして物語は時間を飛び越えるので、感情移入が寸断されることも無い。
少なくともライターとしては非常に才能のある方なのだとわかる。
ただ、欲を言えば、瑛太演じる青年医師の心の変化は描いてほしかった。彼の地域医療に医療の理想を見たという感動は物語上は判るのだけど、彼の興奮は全く伝わってこない。
とは言え、「話を聞いているようで聴いていない、人を見ているようで観ていない彼」の目線でドラマを運ぶと、本作のテーマがぶれそうだとは思う。
【好きなシーン】
鶴瓶師匠と余貴美子がアイコンタクトで肺の空気を抜く応急処置をするシーン。映像はアップの切り返しによって緊張感がみなぎっているのだが、同時に笑わずにはいられない楽しいシーン。お二方とも見事な演技でした。
【追記・・・下世話な話】
西川美和さんは、写真を見る限り、なかなかの美人である。才色兼備の典型例と言って良いと思う。
私のイチオシの横浜聡子監督は美人じゃないが才能なら負けてないハズだ。ガンバレ。と余計なお世話。
美人でもそうでなくても、女性監督の躍進めざましいのが2000年代の日本映画の特長。いい傾向だと思う。
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自主映画撮ってます。松本自主映画製作工房 スタジオゆんふぁのHP
それが本来の人の姿なのかも・・・です。
余貴美子さんのシーンは、すさまじかったです。
この西川監督の映画の音楽を担当してきたバンドを、10月10日に、呼ぶことになりました。「モアリズム」!!
ドキュメンタリー映画祭の真っ最中なんですが、やっちゃえ!ということで。
どうです?連休、いも煮全開の山形まで、いかが?
私にとっての余さんは、何歳になろうと「ヌードの夜」なのですが、最近の色気なしの芝居も堂々としていていいですよね。
ドキュメンタリー映画際なつかしいです
でも往復2万円以上だからキツいです